城史
 この城は天正2年(1574)、それまで山名氏の本城であった此隅山城にかわって、山名祐豊(すけとよ)により築城された。その名は落城した『子盗』(此隅}の名を嫌って『有子』と命名したと云う。しかし僅か6年後の天正8年(1580)天下統一を狙う織田軍によって城は陥落。城主は因幡に出奔した。その後、城は織田系の城主の管理となるが、江戸時代に入り、麓に出石城が築城され、有子山城は廃城となった。 <出石町教育委員会>

1、位置と城史
 有子山城は北流する出石川右岸、出石城下の南東、標高321.5mの有子山の山頂に所在する。城下との比高は約310mあり、城域は東西約740m・南北約780mを測る大城郭である。
 永禄12年(1569)8月此隅山城落城後、山名祐豊は但馬を脱出して泉州堺に遁れたが、織田信長の御用商人・今井宗久の斡旋で同年冬に帰国し(「今井宗久日記」)、天正2年(1574)頃に有子山城を築城したと云う。
 元亀2年(1571)11月には、祐豊は一族の夜久野城主・磯部豊直と共に、反織田方の足立基晴の居城・丹波山垣城を攻めている。(山名祐豊感状「岡村文書など」)。
 天正3年(1575)年春には、「尼子掃討」を目的として芸但和睦(祐豊と毛利の同盟)が成立する。同年10月には、毛利方の丹波黒井城主・荻野直正が太田垣輝延の竹田城と祐豊の有子山城を急襲して奪取、その救援を信長方の明智光秀に要請している(八木豊信書状「吉川家文書」)。この頃から織田党と毛利党の対立が先鋭化している。特に天正4年(1576)2月信長に追放された将軍足利義昭が備後鞆に遁れ、毛利輝元に幕府再興を依頼して以降、友好関係を保っていた毛利と織田は敵対関係に入る。
 天正5年(1577)11月には羽柴秀長の第一次但馬進攻により南但は制圧され、秀長は竹田城を拠点とする。天正6年(1578)4月18日には織田方の宵田城城督・伊藤与三左衛門尉、宵田城主・垣屋光成らと毛利方の垣屋豊続・古志重信・宇山久信らが「宵田表」・「水生古城」の戦いで激突した。この戦いは、豊続の子・垣屋兵部丞が伊藤与三左衛門尉を討ち取るなど毛利党が一時的に勝利した。この時祐豊・氏政は毛利党の支援を行わず日和見の姿勢であった。吉川元春は古志重信宛の書状の中で、「出石(祐豊・氏政)の御事、今に適共味方とも相澄まず、去る頃宵田表へ豊続相戦われ候時も、出石より少人数成りとも差出され候わば弥勝利たるべく候に、其の儀無きの由に候、世上を見合わさる趣に候哉」と記している(垣屋豊続書状「田結庄文書」・毛利輝元書状写「垣屋文書」・吉川元春書状「牛尾家文書など」)。この様な姿勢の祐豊父子に対し、宵田・水生城の戦いから1ヶ月経った同年5月16日、秀吉は出石郡の知行と居城(有子山城)の安堵を条件に織田方に与同するよう誘っている(羽柴秀吉書状写「村岡山名家文書」)。更に秀吉は同年6月、但馬の国衆を竹田城に召出している(「信長公記」)。
 その後、祐豊父子は織田方の誘いに応じなかったようで、天正8年(1580)3〜5月秀長の第二次但馬進攻の時、有子山城は落城している。この時当城には垣屋隠岐守恒総・同駿河守豊続が立て籠もっていたが、一戦も交えず落城したと云う(「武功夜話」)。尚、落城は5月16日との伝承があるが、(現在内町にある福成寺は当時出石川の対岸にあり、秀長の本陣になったと云われる)、「福成寺広原谷中」に対し3月晦日付で羽柴秀吉の禁制が出されているので、落城は4月初旬であったと思われる(羽柴秀吉禁制「福成寺文書」)。
 天正8年の秀吉の因幡攻めでは、山名氏政は私部城(鳥取県八頭町)を守備した(羽柴秀吉書状「利生護国寺文書」。その後秀吉の馬廻衆となり、天正10年(1582)8月播磨国加古郡内で2,000石を拝領している(羽柴秀吉判物「記録御用所本古文書」)。
 天正8年但馬の知行割が行われ、羽柴秀長は但馬七郡105,000余石(ほか20,000石は宮部善祥坊継潤)と播磨二郡を与えられた。秀長は同年5月に有子山城に入部し、翌年6月秀吉の第二次因幡攻めには当城から出陣している(「武功夜話」)。また当城には、城代として木下昌利を配置していた様である(木下昌利書状「総持寺文書」)。本能寺の変後の天正11年(1583)6月秀長は播磨姫路城主となり、「出石御城代」であった青木勘兵衛尉が18,000石を与えられて当城に配属された。天正13年(1585)秀長は大和郡山(奈良県郡山市)に移り、前野長康が但馬七郡75,000石を与えられて当城の城主となった。しかし長康は文禄4年(1595)豊臣秀次事件に連座して息子景定と共に切腹、前野家は断絶となった。
 前野長康除封後の文禄4年8月、小出吉政は長康旧領の内で53,200石を与えられ(小出吉政知行状「金井家文書」)、播磨龍野から入部した(吉政の所領はのち55,000石となる)。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで吉政は父・秀政(岸和田城)と共に西軍に与同し、丹波・但馬の所将と共に丹後田辺城(京都府舞鶴市)の細川藤孝を攻めている。しかし吉政の弟秀家ほか一族は東軍に与し、このため戦後は秀家・吉政共に許され旧領を安堵された。慶長9年(1604)秀政が死ぬと、吉政が摂津岸和田城に移り、有子山城は吉政嫡男の吉英が継いだ。この頃、有子山城の居館部を改修して出石城が築城された。その後の有子山城については、出石城跡の項でもふれたが、元和元年(1615)の一国一城令以降、三ノ丸の築城に伴って廃城になったものと思われる。

2、城の構造
 有子山城は山頂の主郭を中心として、3方向の尾根に連郭式に曲輪を配置し、各尾根の先端に大規模な堀切・竪堀を構築した縄張りである。主郭から西に延び6段の曲輪には高石垣を構築している。
<A列>
 主郭1は東西42m・南北20mを測る粗長方形を呈した曲輪で、城下に面した北側と西側に高さ約4mの石垣を構築している。北側石垣には狭い横矢掛かりが設けられ、西側石垣の南隅には23段の石段(幅4m・長さ9.2m)の虎口が付いている。南側と東側には石垣がなく、南側には折れをもつ幅3.4〜2.0m・高さ1.3mの土塁(内側の基部には石列が残る)、南東隅の大堀切側には櫓台(天守台ヵ)跡と思われる高台(高さ0.4m)が設けられている。主郭1と千畳敷の間は一連の尾根であったものを大堀切(幅28m・深さ12m)を設けて切断したもので、大堀切から長い帯曲輪をつくり曲輪4と繋げる事によって主郭の防禦性を高めている。
 主郭1の階段を下りると虎口曲輪2があり、二折れの通路を経て多角形の細長い総石垣の曲輪3(南北38m・東西20m)に至る。石垣の高さは4.5〜5mを測り、3ヶ所にシノギ積を設け多角形の曲輪を構築している。特に南側の石垣は長く、直線的に長さ38mを測る。その東端に狭い横矢掛かりがあるが、その部分も含めると全長46mもある。石垣の東端は築造の途中で終わっている。曲輪3へ入る虎口は北東隅に設けられていたものと思われるが、破壊されていて分かりにくい。
 曲輪3の西下には曲輪4(東西15m・南北20m)が設けられているが、石垣はない。曲輪3は主郭1から下りてくる通路と大堀切への通路を繋ぎ、更に北下方向からの通路が交わる重要な曲輪である。尚、主郭1から曲輪4へ至る通路は、以前出石町教育委員会によって発掘調査が行われ、長い石段を構築していた事が確認されている。
 曲輪5は32×20mを測り、シノギ積石垣と一部に土塁をもつ多角形の曲輪である。曲輪6との間の石垣は、下部が土の法面であり、土の斜面の途中から石垣が積まれている。曲輪6は32×16mを測り、曲輪の両端に石垣が積まれ、中央部には石垣が積まれず法面となっている。
 曲輪7は曲輪4から南に延びる帯曲輪の更にその下(南側)に設けられた幅7〜10mを測る帯曲輪である。曲輪7は主郭1から曲輪6にかけての南斜面を全体的に防禦する役割をもつ。この帯曲輪には矢穴群をもつ多くの岩が広範囲にわたって散乱しており、地面は傾斜をもって未整地である。「石取場」の遺構を帯曲輪として活用したものであろう。竪堀コは幅4〜5m・長さ約100mを測る。
 曲輪8は10m・長さ36mを測る削平地である。堀切・竪堀ケの堀切は幅10m・深さ5m、竪堀は幅5m・長さ48〜60mを測る。
 曲輪9は井戸曲輪で、主郭部北面の谷部に位置する「水の手」である。この井戸曲輪には土留め兼用の7段の石垣が積まれており、この曲輪を守る幅3mを測る竪堀キを構築している。
<B列>
 B列は主郭1の南東に位置し、大堀切によって主郭と分断されている城内でも最も広い曲輪で「千畳敷」と呼ばれている。東西125m・南北45mを測る曲輪で、3段に区画されている。千畳敷の虎口は曲輪の大堀切から南西側に回り込んで入り、千畳敷の南側の通路(幅8m)に続いている。曲輪1が最も高く曲輪3が最も低く、各曲輪間の段差は約1m程である。曲輪1は長さ47m、曲輪2は長さ45m、曲輪3は長さ32mを測る。此れ等は3つの独立した曲輪ではなく、広い平坦部を3分割して利用したものである。曲輪2の南部分には曲輪1から低い石垣が延びている。曲輪2が一段広くなり長さ16.5mの土塁(石塁ヵ)となっており、土塁の東端は直角に曲がっている。この土塁(石塁)は築地塀の遺構を思われる。また各曲輪間には石列があり、仕切り塀が構築されていたものと思われる。千畳敷からは此れまでに、コビキAの軒丸瓦や丹波焼擂鉢・青磁片など16世紀末〜17世紀初頭の遺物が表採されている。
 曲輪3の東約15m下には、曲輪4(36×15m)と堀切・竪堀サを構築して尾根筋を防禦している。堀切は幅10m・深さ5m、竪堀は幅4m・長さ81.5mを測る。なお近年、この堀切・竪堀サから東に20m程離れた所で尾根筋の南北の斜面に幅約10mもある大規模な2条の竪堀を発見している。曲輪3の北斜面には曲輪5(38×7m)と竪堀シは幅7m・長さ100mあり、幅5mの竪堀が交差している。此れ等の曲輪や竪堀群は、何れも千畳敷を東側と北側の攻撃から守備するものである。
<C列>
 C列は主郭1から北方に延びる尾根に6段の曲輪を配置し、更に曲輪6から約90m北に空間をおいて、尾根上に10数段の小規模な曲輪と竪堀群を配している。
 曲輪1(28×12m)は主郭1の北側にあり、大堀切から北へ延びる幅3mの通路と連結している。主郭1の切岸は高くシャープに成形され、大堀切と連結した曲輪1は主郭を守備する帯曲輪となっており、主郭と同時期に改修を受けている。
 曲輪2は15×19mを測り、縁辺部には1m程の低い石垣が積まれている。曲輪3は15×10mを測り、その下を犬走り状に幅3mの小曲輪が取り巻いている。曲輪4は13×17mを測る削平地で、その前面には9×6mの削平地があり、比高差6〜7mをもって曲輪5に至る。
 曲輪5は23×20mを測り、C列では最大の曲輪である。現在は重機で削平されているものの、この曲輪から井戸曲輪やD列の方向に連絡道が延びていたと思われる。また曲輪6から入る虎口も残っている。曲輪5の前面には12×3mの小曲輪があり、約5mの段差をもって曲輪6に至る。曲輪6は21×18mを測る。
 竪堀カは幅2m内外のもので、かなり埋まっている。大規模な堀切・竪堀オより北側の尾根には小規模で削平の甘い曲輪が連続しており、上段の曲輪1〜6とは異質で、戦国期以前の遺構であろう。注目すべきものは竪堀群である。堀切・竪堀カは大規模で、堀切は幅7m・深さ3m、竪堀は幅5m・長さ15〜35mを測る。現状では堀切が通路として埋められ「土橋状」となっているが、本来は土橋はなかったと思われる。竪堀エは幅3m・長さ21mを測る。竪堀ウは幅3m・長さ15mを測る。竪堀イは幅10m・深さ3mを測る大規模なものであるが、竪堀ウとは連結していない。寧ろ竪堀ウの下方を補強したものが竪堀イであろう。また小人側に延びる竪堀アは、幅8〜9m・深さ3mを測る大規模なものである。竪堀ア・イは三ノ丸を守る内堀へと続き、出石城全体を防禦するラインを形成している。
<D列>
 D列はA列の曲輪6から北西に延びる尾根に構築された、5つの曲輪と大規模な堀切・竪堀から成る。曲輪1は18×20m、曲輪2は18×22m、曲輪3は10×13mを測る。曲輪間の段差は約3〜4mを測る。
 曲輪3から段差約5〜6mを経て曲輪4に至る。曲輪4は24×27mの規模をもち、南側に削り残し土塁(幅2.5m・高さ0.8m)、西側に石列をもつ方形の虎口(2.7×3.6m)を構築している。この虎口は曲輪1〜3の北側の通路(幅2.5m)と連結している。曲輪5は16×10mを測る。
 曲輪5の前面(北西側)には、D列の尾根筋を守備する大規模な堀切・竪堀クを構築している。堀切は幅13m・深さ約15m、竪堀は幅5m・深さ3m・長さ50〜60mを測る。なお近年、堀切・竪堀クの西側尾根に大規模な堀切・竪堀が確認された。堀切は幅7m・深さ5m、竪堀は幅3〜4m・長さ42〜49mを測る。これにより、北西尾根は大規模なニ重の堀切・竪堀で堅固に防禦されていた事になる。
<E列>
 有子山城の登城路(大手道)は出石城の稲荷曲輪から南東に延びる谷筋にあり、幅2〜3mの道が続いている。確認調査では、この大手道は途中から葛折りで井戸曲輪の下の石垣の所に取付くようになっていた。有子山城が使用されていた慶長年間まで機能していたものと判断される。
 また登城路の登り口には、谷川を挟んで3つの曲輪が構築されている。規模は曲輪1が58×18m、曲輪2が50×15m、曲輪3が37×12mを測る。有子山城の登城路を防禦する曲輪と思われる。

3、まとめ
 有子山城の高石垣をもつ曲輪群を、大堀切と帯曲輪で囲い込んだA列と千畳敷のB列は織豊期の改修と思われる。石垣は比較的低く、隅角部は算木積にはなっておらず、シノギ積を多用しているなど古い技法である。北垣総一郎氏によると、A列曲輪3の西角部石垣は算木積を意識したものであり、また北西角部石垣も鈍角のシノギ積で、天正年間の遺構の特色を持ち、特に角部の石垣の長短が一定していない段階のもので、天正5〜8年の石垣であろうと云う。また、主郭や千畳敷周辺から表採した瓦は何れもコビキAの手法で製作されている。井戸曲輪の石垣も織豊期のものである。この様な特徴をもつA列とB列は、天正8年羽柴秀長によって但馬支配・山陰方面の前線基地として、山名時代の城を大改修したものと理解される。
 また、広大な千畳敷からは瓦片や擂鉢・青磁・天目茶碗片などを表採しており、織豊期には瓦建物が存在し、山上居住があった事が想定できる。更に出石城の発掘調査で、織豊期の瓦(コビキA)や石垣が出土している事から、有子山城の居館(山下ノ丸)が出石城と同じ場所に存在した事は疑いない。有子山城は詰城(有子山城)と居館部(山下ノ丸)が一体化した織豊系城郭で、慶長9年(1604)小出吉英の出石城築城後も粗改修を加えずに使用されたものと思われる。
 尚、A列の石取場遺構には多数の矢穴が見られるものの、有子山城の石垣には此れまで矢穴は見つかっていない。矢穴が沢山見られるのは吉英時代の出石城である。この事から、現在見る石取場は出石城の石垣として採取された場所とされている。しかし筆者は、矢穴のない有子山城の石垣採取場所も此処ではなかったかと考えている。今後検討を要する問題である。
 次に、天正2年頃山名祐豊によって築城された有子山城の縄張りを検討してみよう。A列・B列の山頂部は織豊系城郭として大改修したものであるが、A列の主郭1〜曲輪6までは元々山名時代の階段状の曲輪があったものと思われる。千畳敷は織豊期に曲輪の大改修が行われているものの、此処に何段かの山名期の曲輪の存在が考えられ、B列の曲輪4・5や堀切・竪堀サは山名期の遺構である。また、C列の曲輪群(1〜6)やD列の曲輪群(1〜5)も山名期のものである。更に尾根筋を堀切・竪堀で遮断して守備する縄張りは但馬各地の城郭に一般的に採用されており、天正2年頃の遺構とみて問題なかろう。従って、山名祐豊の有子山城は各尾根筋に連郭式に曲輪を配置し、堀切・竪堀や竪堀で防禦する縄張りであったものと思われる。
 しかし、C列の堀切・竪堀オから北側の10数段の小曲輪群は戦国期の遺構ではなく、山名氏以降の南北朝期のものではなかろうか。また、千畳敷の東側の幅10mを測る大規模な竪堀は、出石城(1期)を東西から防禦する大規模な2条の竪堀に対応するものとみられ、小出吉英段階のものと判断される。
 最後に、登城路について言及しておこう。登城ルートには谷ルートと尾根ルートがある。一般的には戦国期までは尾根ルート、織豊期には谷ルートに変化してくるという傾向がある。C列の尾根ルートは戦国期のもので、稲荷曲輪から井戸曲輪に取付く谷ルートは織豊期のものと想定される。<豊岡市の城郭集成Uより>