歴史
宵田城は円山川支流の稲葉川右岸、岩中集落西側、標高156mの山頂に所在し、山裾を円山川に注ぐ稲葉川が堀のように取り巻いて流れている。城域は東西・南北とも約400mもある大規模城郭で、岩中集落との比高は約136mを測る。
宵田城は永享2年(1430)
楽々前城主・垣屋隆国が築き、二男垣屋国重を城主とした(因幡垣屋系図)というが、一次史料では確認できない。文献的に確認できる城主は煕知、遠忠、豊知、孝続である。
中略
天正6年(1578)4月には、垣屋豊続は「宵田表」の戦・「水生古城」の戦で織田方と合戦し、一時的に勝利している。この戦いは宵田城や
水生城周辺での合戦で、毛利方(垣屋豊続、古志重信、宇山久信ら)と織田方(垣屋光成・恒総?、宵田城主、伊藤与三左衛門尉ら)の戦いである。この時豊続の子垣屋兵部丞に討捕られた、織田方の伊藤与三左衛門は「宵田城の城督」であった。城督とは城代のことで、天正6年段階では宵田城は完全に織田方に握られていたことになる。またこの時の宵田城主は、元亀2年に史料を残している「孝続」であろう。
中略
宵田城は室町初期垣屋氏によって築城されたというが、主郭北西・北尾根、及び曲輪8の東側尾根の小曲輪群は古い要素を持っており、その築城は垣屋氏以前の南北朝期に遡るのではなかろうか。
室町期には、主郭を中心にして四つの尾根に曲輪群を並べた放射状連郭式の曲輪配置をしていたであろう。戦国初期には、主郭・帯曲輪・曲輪8から南北に延びる曲輪群や曲輪5等で改修されたものと思われる。戦国末期に至り、主郭と帯曲輪等の防御性を高める為に、畝状竪堀を含む大規模な竪堀群を構築したものであろう。その時期は天正3~5年頃であろう。
織豊期の改修と考えられる遺構は、主郭の石垣・土塁で固めた虎口、曲輪5の土塁と枡形虎口、曲輪5へ至る竪堀状の通路等である。これらの遺構は、宵田城が織豊勢力の拠点と化した天正6年頃の普請によるものか、或は宵田城と
有子山城の支城として機能させる為に改修した普請に依るものか、今後の検討を要するところである。<豊岡市の城郭集成Ⅱより>
コメント
まず、鹿島神社、宵田城の山頂の電波塔が目印です。岩中発電所横の登山道は砂利道で途中から舗装もされていて登りやすかったです。過疎化も進んでるし、冬季だし人に会う事もないなーと思っていると帰りに地元の方らしき人に会い、挨拶して下山しました。
久々に山城のぼったなぁ~といい気分になりました。本丸には桜も植えられていてシーズンには良さそうです。
オススメ ☆☆☆
難易度 ☆☆☆☆
アクセス ☆☆☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県豊岡市日高町岩中字城山
- 通称
- ─
- 形式
- 山城 (標高 154.8m、比高 140m)
- 遺構
- 曲輪、土塁、竪堀、切岸、井戸
- 築城者
- 垣屋隆国
- 主要城主
- 垣屋氏
- 築城年
- 永享2年 (1430)
- 廃城年
- ─
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- あり (鹿島神社or岩中発電所駐車場)
- アクセス
- JR山陰本線『江原駅』より 徒歩約20分/登山口より約15分で本丸