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全国気ままに城めぐり♪

日本お城めぐりの旅

水生城MIZUNOO CASTLE


歴史

1、位置と城史
 水生城は円山川左岸、上石集落北側、標高約159mの丘陵に所在し、山裾を八代川が天然の堀のように取り巻いている。上石集落との比高は約150mある。城域は東西約650m・南北約130mを測る。城は、東西に延びる稜線の三つのピークに構築された城砦群(城砦Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)で構成されている。
 南北朝期、水生城は南朝方の一大拠点となり、北朝軍の攻撃を受けている。延文元年(1356)8月、長左衛門尉(山名時氏家臣)の立籠る「水尾山」(水生城)を「水上山」(国分寺城)に布陣した伊達真信ら北朝軍(今川頼貞軍)が攻めている。攻防戦は11日間(16~26日)にわたって展開されたが、北朝軍に攻略された(伊達真信軍忠状「伊達家文書」)。
 天正6年(1578)4月、毛利方の竹野轟城主・垣屋豊続、古志重信、宇山久信らと織田方の伊藤与三左衛門尉(宵田城督)・垣屋光成・宵田城主(垣屋孝続ヵ)らが、「宵田表」(宵田城)や「水生古城」で合戦をし、毛利方が一時的に勝利している。これらの戦いで、豊続の子・垣屋兵部丞は宵田城督伊藤与三左衛門尉を討ち取る戦功をあげたが、古志氏の一族は戦死している(山名氏政感状「古志文書」、垣屋豊続書状「田結庄文書」、毛利輝元書状「垣屋文書」・「萩藩財閥閲録」)。
 天正8年(1580)4月、羽柴秀長の第2次但馬攻めの時、垣屋豊続ら竹野勢が水生城に立籠もって秀長軍を迎え撃ち、水生城の合戦が行われた。毛利方は垣屋豊続・大坪又四郎(国分寺城主)・篠部伊賀守(宮井城主)・下津屋伯耆守(伊福城主)・長越前守(林甫城主)・西村丹後守(水生城主)ら1500人であった。一方、織田方は宮部善祥坊(継潤)・藤堂与右衛門(高虎)・居相孫作・栃尾源左衛門らであったという(「武功夜話」)。

2、城の構造
 水生城は、城砦Ⅰ・城砦Ⅱ・城砦Ⅲの城砦群で構成されている。
〔城砦Ⅰ〕
 城砦Ⅰは城域の西端、標高159mに位置する。西縁部に幅広い土塁(幅3.8m・高さ0.6m)を巡らせた主郭1は東西25m・南北30mあり、北東側に曲輪2(18×5m)を設け、その西側に坂虎口を構築している。
 主郭1の西側約8~9mには、西端に土塁(幅2.5m・高さ0.8m)をもつ長大な曲輪3(東西68m・南北18m)と曲輪4(15×17m)を設け、その北斜面には2条の竪堀を構築している。竪堀アは幅3.5m・長さ11m、竪堀イは幅2.5m・長さ10mを測る。また曲輪4の西側の尾根鞍部には、2条の堀切・竪堀を構築して防禦を固めている。堀切Aは幅4m・高さ6m、竪堀ウ・エは幅2m・長さ10~11mを測る。堀切Bは幅10m・深さ2.5m、竪堀オ・カは幅2.5m・長さ10~12mを測る。
 主郭1の北~東側約8~9m下には、曲輪5(20×11m)・曲輪6(25×9.5m)から成る帯曲輪を巡らせている。また、竪堀キ(幅3m・長さ15m)は帯曲輪を切って構築されている。
 更に、主郭の南東尾根には6段の曲輪が構築されている。曲輪7は14×9m、曲輪8は18×10m、曲輪9は16×8m、曲輪10は20×10m、曲輪11は55×11mを測る。曲輪10と曲輪11との段差は大きく、約7mを測る。また主郭の南尾根には主郭からかなり離れた所に曲輪12(22×15m)が配置されている。

〔城砦Ⅱ〕
 城砦Ⅱは城郭Ⅰの東側、標高約135mに位置している。小規模な曲輪7(6×10m)の下約5mに帯曲輪8(幅6~7m)が取り巻き、その西側尾根に古墳を利用した6段の小曲輪と堀切、竪堀を構築している。曲輪9は10×7m、堀切Cは幅5m・深さ0.6m、竪堀キは幅2m・長さ15mを測る。竪堀クは幅3m・長さ10mを測る。
 また曲輪7の北東には、4条の堀切・竪堀と2段の小曲輪を構築して尾根筋の遮断を図っている。曲輪10は12×17mを測り、堀切は幅4~6m、竪堀は幅3~4m・長さ10~20mを測る。

〔城砦Ⅲ〕
 城砦Ⅲは城砦Ⅱの更に東側、標高約130mに位置し、水生城の東端を守備する砦である。曲輪11(11×14m)の北・東・南側に帯曲輪12(幅5~10m)と曲輪13(10×8m)、西側に堀切D(幅5m・深さ7m)を構築している。

3、まとめ
 水生城は、城砦Ⅱ・Ⅲや城砦Ⅰの縁辺部にみられる小曲輪群の配置から、南北朝期に築城の起源を有し、戦国末期に城砦Ⅰの主郭周辺部を中心にして改修したことが窺える。城砦Ⅱの堀切・竪堀(畝状竪堀)は戦国末期の改修である。
 城は円山川左岸の、日高町から豊岡盆地に入るルートを押さえる要衝に位置し、南北朝期と戦国末期の戦闘に利用されている。何れの時代にも水生城は、但馬外から進入してくる勢力を一時的に食い止める為に活用されたようである。しかし、天正6年の段階では水生城は「水生古城」となっており、利用されていなかったことが判明する。<豊岡市の城郭集成Ⅱより>


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データ

所在地
兵庫県豊岡市日高町上石字コズ
通称
形式
山城 (標高 159m/比高 150m)
遺構
曲輪、土塁、堀切、竪堀
築城者
不明
主要城主
不明
築城年
南北朝期?
廃城年
不明
開城時間
常時
入城料
無料
休城日
なし
駐車場
未確認
アクセス
JR山陰本線『国府駅』より
北近畿豊岡自動車道『日高神鍋高原IC』より 

日本100名城
現存12天守
番外編

個人データ
初登城日:未 踏
最終登城日:未 踏