歴史
1、位置と城史
伊福城は円山川右岸、鶴岡集落東側、標高77.2mの独立丘陵に所在し、円山川が天然の堀のように蛇行して取り巻いている。城の南斜面に井田神社が鎮座する。城域は東西約350m・南北約150mを測る大規模城郭である。山裾との比高は約60mを測る。
室町~戦国期の城主は下津屋氏であるという。下津屋氏は中堅国人で、山名氏の直臣であったようである。
康正元年(1455)因幡国で滑良兵庫と伊達新介が争った時、収拾に手を焼いた因幡守護山名棟豊は山名宗全に援助を依頼し、宗全の命を受けた篠部伊賀守・下津屋伯耆守が討伐に向かい、和睦させたという(『但馬の城』)。
永正5年(1508)7月、但馬守護山名致豊は下津屋新三郎に、但馬国所々の知行、京都清涼寺分(清冷寺)代官職および備後・播磨・伯耆の知行を安堵している(山名致豊判物「森家文書」)。
永禄13年(1570)正月、泉州堺に亡命していた但馬守護山名祐豊は、下津屋安芸守・伊帙美作守と共に
此隅山城に到着している。その際、下津屋らが此隅山城を占拠していた垣屋氏を放逐している(『日高町史・上巻』)。
天正6年(1578)5月、山名氏政は下津屋丹後守を遣わして、
水生城の合戦における古志左衛門尉の弔慰と合戦の勝利を賞して、古志重信に感状を与えている(山名氏政書状「古志家文書」)。
天正7年(1579)11月、山名氏政は浅間寺(八鹿町)に対し守護不入と課役免除を認め、先例通り陣僧を命じているが、その執行を下津屋対馬守・成安山城守に申し付けている(山名氏政書状「浅間寺文書」)。
天正8年(1580)4月、羽柴秀長の第2次但馬進攻の時、伊福城主下津屋伯耆守は大坪又四郎(
国分寺城主)・篠部伊賀守(
宮井城主)らと共に垣屋豊続勢(竹野勢)として水生城で抗戦している(「武功夜話」)。
2、城の構造
伊福城は、標高77.2mに位置する大規模な主郭に帯曲輪を巡らせ、其処から2方向に延びる尾根に曲輪群を設け、要所に堀切・竪堀や畝状竪堀を構築して防禦する縄張りである。
主郭1は東西85m・南北30mを測り、主郭の北・東・南下にかけて段差約7~8mを測る帯曲輪を巡らせている。曲輪7は40×15m、曲輪6は18×11m、曲輪5は25×12.5m、曲輪8は55×11mを測る。曲輪6の北東斜面には、3条から成る大規模な畝状竪堀を構築している。竪堀ウは幅5m・長さ42m、竪堀エ・オは幅4.5~5m・長さ48mを測る。
主郭1の北西尾根には、切岸のしっかりとした3段程の曲輪を配置している。曲輪2は21×23.5mを測り、主郭との段差は約4.5mある。曲輪3は20×14.5mを測り、曲輪2との段差は約5~6mある。曲輪4は22×34mを測り、国府・神鍋・江原方面が見通せる位置にある。
曲輪5の南東尾根には曲輪9(11×8m)・曲輪10(25×10m)と大規模な土塁を伴う堀切・竪堀を構築している。竪堀Aは幅7m・深さ5mを測り、竪堀アは幅6m・長さ51mを測る。竪堀イは幅5~5.5m・長さ25mを測る。
更に、堀切Aの北東尾根には6段程の小曲輪群と浅い堀切Bを構築している。曲輪11に10×15m・曲輪12は9×14mを測り、堀切Bは深さ約1m程である。
3、まとめ
城は堀切の東側の小曲輪や城郭縁辺の小曲輪の存在から、南北朝期から室町期に築城起源を有し、戦国期に帯曲輪等によって大改修され、更に戦国末期に堀切・竪堀や畝状竪堀によって補強されたものと推察される。
広大な主郭や比高の低さなどを勘案すると、主郭部分に居館の存在を想定することができ、全体を「館城」と捉えることも可能であろう。
城は円山川に突き出すような位置にあり、全方向を見渡すことが可能である。『日高町史・上巻』<豊岡市の城郭集成Ⅱより>
コメント
100城目(146城目、全399城目)
旧鶴岡橋 車を停め、井田神社を右
竪堀を見つけ…
オススメ ☆☆☆
規 模 ☆☆☆
難易度 ☆☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県豊岡市日高町鶴岡字城山
- 通称
- ─
- 形式
- 館城 (標高 77.2m/比高 60m)
- 遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀、切岸
- 築城者
- 不明
- 主要城主
- 下津屋氏
- 築城年
- 南北朝~室町期?
- 廃城年
- 不明
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- あり(無料)
- アクセス
- JR山陰本線『江原駅』より
- 北近畿豊岡自動車道『日高神鍋高原IC』より