本文へスキップ

全国気ままに城めぐり♪

日本お城めぐりの旅

宮井城MIYAI CASTLE


歴史

1、位置と城史
 宮井城は奈佐川左岸、宮井集落の西奥、標高約160mの山頂に所在する。集落との比高は約145mある。城域は東西約280m、南北約150mを測る。
 弘安8年(1285)当時奈佐谷は樋爪庄と樋爪国領とに分かれているが、その両方共、奈佐太郎高春が下司、宮井太郎兵衛尉盛長が公文となっている(『但馬太田文』)。宮井が宮井氏の本拠と考えられるが、その後の宮井氏の動向は明らかではない。
 戦国期の城主は、一次史料では確認できないものの篠部氏と伝承されている。大永年間(1521~28)美含郡篠部庄(香住町)出身の篠部伊賀守は奈佐谷を押領し、宮井城を居城としたと伝える(『但州一覧集』)。天正3年(1575)10月の野田合戦(織田方の田結庄是義と毛利方の垣屋豊続の争い)に際し、篠部伊賀守ははじめ田結庄是義に与同したが、形勢不利とみて垣屋豊続方についた(『但州発元記』)。天正8年(1580)4月、羽柴秀長の第2次但馬進攻の時、篠部伊賀守は垣屋豊続勢として水生城(日高町)で秀長勢を迎え撃っている(『武功夜話』)。
 尚、宮井地区の「篠部谷」「家中」「芳賀殿」「谷殿」「南殿」などの地名からは篠部氏の居館や家臣の屋敷の存在が、また「市場」や「金場」の地名は市場と鉱山経営を想定させる。

2、城の構造
 宮井城は、主郭から三方向に延びる尾根に連郭式に曲輪を配置した縄張りで、主郭背後(南側)に三重の堀切・竪堀を構築しているのが特徴的である。
 主郭1は東西25m、南北30mを測り、南側に土塁(幅約2m、高さ約1.2m)をもつ。主郭1の西側には、幅約5mの段差をもって土塁(幅約3m、高さ約0.5m)が半周する曲輪2(20×19m)を設けている。曲輪2の切岸は高く、約10m程ある。更にその西下尾根には、三重の堀切・竪堀を構築している。堀切Aは幅6m、堀切Bは幅7m、堀切Cは幅7mを測り、竪堀は幅約3~4m・長さ10~15mを測る。
 主郭1の北西には、約8mの段差を経て曲輪3(20×9m)・曲輪4(16×6m)・曲輪5(12×6m)を配置している。
 主郭1の東側尾根には、やや規模が大きく段差のある曲輪6(27×11m)・曲輪7(20×6m)・曲輪8(17×15m)・曲輪9(25×13m)・曲輪10(10×22m)・曲輪11(15×8m)が階段状に構築されている。曲輪間の段差は、主郭1と曲輪6が約6m、曲輪6と曲輪8が約4m、曲輪8と曲輪9が約7~8m、曲輪9と曲輪10が約5m、曲輪10と曲輪11が約5mを測る。曲輪11の更に東下の尾根には、10×10m以下の小曲輪群が16段ほど続く。

3、まとめ
 城は、主郭周辺を中心にして切岸が高く大きな曲輪群や三重の堀切・竪堀を構築した部分と、小曲輪群を並べた尾根先端部分の落差が際立っている。したがって、この城の築城起源は古く南北朝期に遡り、戦国期に大改修したことが窺える。
 そのように考えると、史料的裏付けはないものの、城は南北朝期に宮井氏によって築城され、戦国期に篠部氏によって大改修されたものと推察される。
 また、宮井氏には宮井城の約500mほど東、集落に西端に南殿城が所在し、やはり戦国期の様相を呈する所から、篠部氏による築城が考えられる。<豊岡市の城郭集成Ⅰより>


コメント

オススメ 
規 模   
難易度  
アクセス ☆☆☆☆


データ

所在地
兵庫県豊岡市宮井字城ノ谷
通称
形式
山城(標高 160m/比高 145m)
遺構
曲輪、土塁、堀切、竪堀、切岸
築城者
宮井氏?
主要城主
宮井氏、篠部氏?
築城年
南北朝期?
廃城年
不明
開城時間
常時
入城料
無料
休城日
なし
駐車場
未確認
アクセス
JR山陰本線『豊岡駅』より
北近畿豊岡自動車道『日高神鍋高原IC』より 

日本100名城
現存12天守
番外編

個人データ
初登城日:未 踏
最終登城日:未 踏