歴史
国分寺城は円山川左岸、国分寺集落北側、標高91mの丘陵突端に所在する。城域は東西約230m・南北約280mを測る。国分寺集落との比高は約70mと低い。
観応2年(1351)9月、北朝方の今川頼貞が南朝軍を攻撃する為に「国分寺」に布陣している(伊達朝綱軍忠状「南禅寺文書」)。この国分寺が寺院か城かは定かではない(一体であった可能性もある)。
延文元年(1358)8月、北朝方の伊達真信は「水上山」(国分寺城)に馳せ参じ、「水尾山」(
水生城)に立籠る南朝軍を攻略している(伊達真信軍忠状「伊達家文書」)。この時の国分寺城主は不明であるが、北朝方に属していたようである。
天正8年(1580)4月、竹野
轟城主・垣屋豊続が水生城で羽柴秀長軍を迎え撃った時、国分寺城主・大坪又四郎は垣屋勢として参戦している(「武功夜話」)。
中略
主郭と副郭の周辺は戦国期の改修が顕著であり、特に副郭周辺は戦国末期に横堀・竪堀・畝状竪堀・土塁等によって大改修されたものである。
副郭北側に延びる尾根の遺構は古い要素を有し、南北朝期に遡るものと推察される。また、主郭南側の曲輪群は北側尾根の小規模な遺構とは異なり、室町期の様相を呈している。
本来城の中心は、南北朝~室町期の主郭から、戦国末期には副郭へと移動したようである。
位置的に国分寺城は、
宵田城と共に「垣屋谷」(神鍋・三方地区)の入口を押さえる最重要拠点にあり、そのため戦国末期に大改修がなされたものと思われる。<豊岡市の城郭集成Ⅰより>
コメント
オススメ ☆☆
規 模
難易度 ☆☆☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県豊岡市日高町国分寺字城山
- 通称
- ─
- 形式
- 山城 (標高 91m、比高 70m)
- 遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀、横堀、切岸
- 築城者
- 不明
- 主な城主
- 不明
- 築城年
- 不明
- 廃城年
- 不明
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- なし
- アクセス
- JR山陰本線『江原駅』より 徒歩約10分
- 北近畿豊岡自動車道『日高神鍋高原IC』より