ここは、曾ての船上城の本丸跡と考えられています。
この地には、室町時代に播磨の豪族赤松氏が砦を築き、その後も三木城主・別所長治の叔父・別所吉親や蜂須賀小六正勝などが居城しました。
天正13年(1585)の国替えによりこの地を与えられた高山右近は一旦は枝吉城に入るも、明石海峡の戦略的な位置にあり大阪城を守る要として、船上城を整備し、後に移りました。
同時にキリシタン大名だった右近は、明石でも熱心に布教を行ないましたが、2年後のキリスト教禁止令により領地を没収され、ついには国外追放となったのです。
その後、元和3年(1617)に信濃松本より小笠原忠真(初名忠政)が船上城に入りましたが、忠真は明石城を築き、船上城は廃城となりました。
しかし明石城やその城下町には、船上から移されて利用されているものが数多くあり、明石城の坤櫓は船上城の移築櫓、市指定文化財になっている織田家長屋門は、当時の侍屋敷の門と言われています。<現地案内板より
一部加筆>