枝吉城は、戦国争乱の時代が幕をあける15世紀中頃(永享元年(1429))、明石氏(尚行)によって築城された。明石氏は、古代明石郡の大領を先祖とするという言い伝えがある。
城を台地上に構え、その東縁には城主の居館を中心に城下町が形成され、一時は地域の中心として賑わった。その後、枝吉城は二度の合戦を経て、城下町もその度に戦火にあった。16世紀末(天正14年(1586))には、関白となった豊臣秀吉による大規模な国替えで、枝吉城主の明石則実が豊岡へ移り、代わってこの地にはキリシタン大名の高山右近重友が入る。枝吉城に入った右近は、直ちに新たな城の築城に着手し、完成をみて新城・船上城に移り、1世紀半に渡る枝吉城の歴史は終わった。
枝吉城が築かれていた台地は城山と呼ばれ、6万3千余平方メートルの範囲には田畑や雑木林、溜池があった。この台地上には、稲作開始期にあたる弥生前期の村落跡もあったが、枝吉城築城の際に壊されてしまった。弥生前期の村落跡「播磨吉田遺跡」と「枝吉城址」の顕彰碑が城山台地上に建立され、この地の歴史の1ページを記念している。<現地案内板より 一部加筆>