三木城は上の丸台地上に築かれた丘城です。15世紀後半に別所則治によって築かれたと考えられます。
天正6年(1578)から同8年、東播磨最大の勢力を誇る三木城主・別所長治と織田信長の武将・羽柴秀吉の間に起こった三木合戦では『三木の干し殺し』と呼ばれる兵糧攻めが行われました。
落城後も三木が播磨における京都や大坂からの入口として重要な場所であった為、主に豊臣家の直轄地として城代、城番が置かれました。慶長5年(1600)池田輝政の姫路入封に伴い、姫路城の支城となった三木城には、家老の伊木忠次が入城しましたが、元和元年(1615)の一国一城令によって廃城となりました。
構造は、本丸・二ノ丸を中心部とし、新城・鷹尾山城・宮ノ上要害で構成され、南側は山と谷、他三方を崖に囲まれています。土造りの城としては、播磨の中でも最大級の規模を誇っています。
平成25年3月、領主の居城と攻城側の付城が一体的に残る貴重な事例として、三木城の本丸・二ノ丸・鷹尾山城跡が、平井山ノ上付城跡(秀吉本陣跡)等の付城跡ともに国の史跡に指定されました。<現地案内板より>