歴史
隈本城主・加藤清正は天正19年(1591)から、隈本城、
千葉城のあった茶臼山丘陵に新しい城郭を築き始める。慶長5年(1600)頃には天守が完成し、千葉城、古城を取り込み出丸とした形で築かれたのが、現在の熊本城である。築城は、これまで関ヶ原の戦い後の1601年からの開始とされていたが、近年では関ヶ原の合戦前に急ピッチで築城したとの説が有力である。
朝鮮出兵での蔚山城籠城戦(1597年)で飢えに苦しんだ経験をもつ清正は、城内に120以上の井戸を設け、土壁に干瓢、畳床に芋茎(ずいき)、多数の銀杏の木を植え長期の籠城戦でも耐えうるよう工夫した。これが"やりすぎ"、"銀杏城"と言われる由縁である。
また清正はこの銀杏を植える際、『この銀杏の木が天守と同じ高さになった時、この城で兵乱が起きるだろう』と呟いたとされ、実際に木の高さが天守に追いついた頃の明治10年(1878)西南戦争が勃発。
熊本城は政府軍の重要拠点となり、天守をはじめ多くの施設を失うも石垣はビクともせず、西郷軍の攻撃を52日間耐え抜き、西郷軍は城内に一歩も入れなかったという。総大将・西郷隆盛は『おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす』と呟いたとされ、築城から数百年後でも攻略不可能なまさに難攻不落の名城を物語るエピソードである。
慶長16年(1611)に清正が死去すると、三男の忠広が跡を継ぎ、寛永9年(1632)に忠広が改易されると、豊前
小倉城主の細川忠利が肥後54万石で入城する。入城後、忠利は本格的な戦を想定し、居住には不便であった熊本城を増築・拡張する。本丸御殿下には清正時代の石垣と敷地を拡張した忠利時代の石垣(二様の石垣)を見ることができます。
大小天守閣をはじめ、他の城では天守に匹敵する宇土櫓、高くなるにつれて勾配のきつくなる武者返しなどは圧巻で、櫓49、櫓門18、城門29を数え、城郭の広さは約98ha(東京ドーム21個分)、周囲約5.3kmの規模を誇る絢爛豪華なお城は一大名の城としては日本一との呼び声高く、
大坂城・
名古屋城と共に日本三大名城の一つに数えられる。
コメント
遠方ですが5年で3度目の登城です。当初は、初めて訪れるお城(この日は人吉、
佐敷城等)に時間をかけ、熊本城は飯田丸、櫓群のみを予定していましたが、今回は初めて一人での登城という事で、急遽熊本城中心のスケジュールとしました。やはり、清正の”やりすぎ”のお城は見所満載で存分に堪能させて頂きました。
ただ、他のお城も然りですが、この時期の九州は黄砂で空が霞んで残念ですね…肉眼ではあまり感じませんが、カメラは優秀です。
オススメ ☆☆☆☆☆
難易度 ☆☆☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 熊本県熊本市本丸町
- 通称
- 銀杏城
- 形式
- 梯郭式平山城
- 遺構
- 復興天守、本丸御殿、石垣、門、塀、堀、櫓
- 築城者
- 加藤清正
- 主な城主
- 加藤清正、細川忠利
- 築城年
- 慶長12年(1607)
- 廃城年
- 明治7年 (1874)
- 開城時間
- 8:30〜18:00(17:00)
- 入城料
- 500円
- 休城日
- 12月29〜31日
- 100名城スタンプ
- 頬当御門、櫨方門、須戸口門、不開門
- 駐車場
- 有料駐車場あり
- アクセス
- JR鹿児島本線『熊本駅』より 市電『熊本城・市役所前』下車