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全国気ままに城めぐり♪

日本お城めぐりの旅

祢布城NYOU CASTLE 


歴史

1、位置と城史
 祢布城は円山川支流稲葉川左岸、祢布集落南側、標高約110mの丘陵突端に所在する。城域は東西約80m、南北約140mを測る。集落との比高は約80mと低い。
 城主は高田次郎貞永であり、南北朝の頃山名時氏に滅ぼされた(『但馬の城』)というが、定かではない。

2、城の構造
 祢布城は主郭の背後を深い堀切・竪堀で遮断し、その前面(東~北側)に6段程の曲輪を階段状に配置した縄張りである。
 主郭1は東西23m・南北約15mを測り、主郭の西側には深い堀切・竪堀と2条の竪堀を構築している。堀切Aは幅17m・高さ約8mを測り、竪堀アは幅4.5~5m・長さ29m、竪堀イは幅4~4.5m・長さ21m、竪堀ウは幅4.5m・長さ22mを測る。竪堀は2条が結合しているものの、畝状竪堀と見られる。
 主郭1の北側と南側には堀切側に削り残し土塁をもつ2つの曲輪(2・3)を設け、主郭1の東側約5m下には帯曲輪4(40×15m)を構築している。
曲輪2は14×9m、土塁は幅2.5m・高さ0.7mを測る。曲輪3は10×5m、土塁は幅3m・高さ1.8mを測る。更に、曲輪2の南側には、南方を守備する曲輪5(25×5m)を構築している。
 曲輪4の北側約6m下には、帯状の曲輪(6・7・8)を設け、更に曲輪7の約14mほど下には曲輪9(26×15m)・曲輪10(15×5m)を構築して尾根筋の防禦を図っている。

3、まとめ
 祢布城は小規模ではあるが、曲輪の切岸や堀切、竪堀などはしっかりしており、主郭周辺や堀切・畝状竪堀などは戦国初期の改修である。しかし小曲輪群の存在から、築城起源は南北朝期に遡るものと推察される。
 城は規模的には地侍クラスの「村の城」であるが、戦国期には国分寺城と共に宵田城の支城として神鍋・三方の谷を監視・封鎖する役割を担っていたものと思われる。<豊岡市の城郭集成Ⅱより>


コメント

オススメ ☆☆
難易度  ☆☆☆
アクセス ☆☆☆


データ

所在地
兵庫県豊岡市日高町祢布字城山
通称
形式
山城 (標高 110m、比高 80m)
遺構
曲輪、土塁、堀切、竪堀
築城者
不明
主要城主
高田次郎貞永
築城年
南北朝期?
廃城年
不明
開城時間
常時
入城料
無料
休城日
なし
駐車場
なし
アクセス
JR山陰本線『江原駅』より 徒歩約15分
北近畿豊岡自動車道『日高神鍋高原IC』より

日本100名城
現存12天守
番外編

個人データ
初登城日:2013.2.7
最終登城日:2013.2.7