歴史
=黒井城跡=
満々と水を湛えた七間濠・高石垣と白いねり塀で囲まれた興禅寺は、戦国時代の居館の様子を今によく残しています。
<背後に聳える
黒井城跡は南北朝時代の建武2年(1335)、春日部荘を領した赤松筑前守貞範(赤松円心のニ男)が山頂に簡素な城を築いたことから、その歴史が始まるといわれています。
それから約200年の後、戦国時代に入った天文23年(1554)、新たに城主となった荻野(赤井)悪右衛門直正はその勢威を丹波一円に広げると共に、黒井城の大改修を行ない、規模雄大な戦国の城を築きあげました。
その遺構は、戦国時代の山城の様子をそのまま残しているとして大変高い評価を受け、国の指定史跡となっています。>
この時代、城主は平時は山麓の下館に住んで軍事や政務を行ない、戦いが始まると山城に籠って戦うのが通常でありました。その下館跡が現在の興禅寺です。
▲斎藤内蔵助利三 黒井城に入る
天正3年(1575)、天下布武を狙う織田信長は明智光秀に丹波攻略を命じましたが、丹波国人衆の抵抗は激しく、中でも最後までこれに抗したのは、多紀郡(現篠山市)の八上城主・波多野秀治と黒井城主の荻野(赤井)悪右衛門直正でした。
天正7年6月、明智の大軍の前にまず八上城が落ち、続いて8月、既に前年、城主の悪右衛門直正を病気で失っていた黒井城が落城して、丹波の戦国史はここに終わりを告げました。
その戦後処理の為に黒井城に入ったのが、明智光秀配下の名将と謳われていた斎藤内蔵助利三です。
利三は、黒井城の下館(現興禅寺)を陣屋として西丹波一円の治安に当たると共に、領民を慈しみ善政を布きました。現在、北の城下にあたる白毫寺(市島町)には、利三が門前城下中に宛てた軍役用捨の書状が残っていて、その一端を窺うことができます。
利三は、新たに主君・明智光秀の居城となった
亀山城(現京都府亀岡市)と往来を重ねながら、天正9年の終わりまで足掛け3年、この地に住みました。
地元では、この陣屋(現興禅寺)を斎藤屋敷と呼び、すぐ下を通る道を陣屋町、近くにある四つ辻を札場(各種の高札を立てる場所)と伝承しています。
<春日市民センター内配布 興禅寺パンフレットより>
コメント
オススメ ☆
規模 ☆☆
難易度 ☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県丹波市春日町黒井(興禅寺)
- 通称
- 斎藤屋敷
- 形式
- 陣屋
- 遺構
- ─
- 築城者
- ─
- 主要城主
- 斎藤氏
- 築城年
- ?
- 廃城年
- ?
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- 無料駐車場(約20台)あり
- アクセス
- JR福知山線『黒井駅』より900m(徒歩12分
- 舞鶴若狭道/北近畿豊岡道『春日IC』より1.7km(車で5分)