歴史
=赤井直正 vs 明智光秀=
黒井城は、豪勇を謳われた赤井(荻野)直正が城主で、戦国時代の丹波を代表する山城です。赤井直正は、自らを悪右衛門(悪:勇猛さを示す)と名乗り、近隣の有力武将を従え、奥丹波三郡(氷上郡、天田郡、何鹿郡)を領し、また度々但馬へ侵攻を続けました。
天下布武を目指す織田信長が、明智光秀に丹波平定を命じると、この黒井城でも、明智の大軍と黒井勢との間に、2度に渡る激しい攻防戦が繰り広げられました。苛烈な戦国時代の遺構を、山中至る所に残す黒井城跡は、貴重な『戦国の城』として国の史跡に指定されています。
赤井(荻野)悪右衛門直正は、
後屋城主・赤井時家の次男として生まれ、幼名を才丸と言い、当時朝日城に拠っていた土豪・荻野十八人衆に迎えられて盟主となり、荻野性を名乗りました。その後、黒井城主となった直正は、黒井城の改修に手をつけ、防禦を固めると共に、その勢威を丹波一円に広げ、また但馬へも進出して、その勇猛ぶりは『丹波の赤鬼』と呼ばれました。当時の名将13人の内の一人にも数えられています。
天正4年(1576)、明智光秀の黒井城攻めでは、盟友であった八上城主・波多野秀治と謀り、機をみて双方から明智勢を挟み撃ちにし敗走させました。後にこの作戦を「赤井の呼び込み戦法」と呼んでいます。
天正6年(1578)、反織田勢力の一翼を担った悪右衛門直正は病没。
内室は前関白・近衛前久の娘か妹と伝えられ、夫妻の位牌は黒井の興禅寺に祀られています。
=戦国の知将・明智光秀=
第1回の黒井城攻略で、赤井、波多野勢の奇襲を受け敗北した明智光秀は、再度の攻略の策として鐘ガ坂に
金山城を築き、黒井城と八上城を分断。ここを拠点にして八上城を落城させました。
天正7年(1579)、孤立した黒井城も間もなく落城。明智光秀の丹波平定は、ここに終わりを告げました。
城下には、明智光秀が陣城とした茶臼山遺跡、水色の桔梗の旗を靡かせた「幟立て」、軍兵が勢揃いした「太刀野」などの地名が残り、明智勢黒井城攻めの名残りを留めています。<現地案内板より 一部加筆>
コメント
標高・比高から地元
有子山城と比較し、比高も80m低いので、楽勝かと思ってましたが…健脚コースと呼ばれるルートはかなりハードでした。残り300mの看板手前でクタクタでしたので、途中休憩がてら登山道を右手へ折れ太鼓の段へ。
春日IC周辺から見える山をずっと登りたいと思ってましたが、予想以上に満足できました。
他の砦群は行く余裕がなく見れませんでしたが、規模…堅固さは必見です。
オススメ ☆☆☆☆
規模 ☆☆☆☆☆
難易度 ☆☆☆☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県丹波市春日町黒井
- 通称
- 保月(ほげつ)城、保筑(ほづき)城
- 形式
- 山城(標高 356.8m/比高 220m)
- 遺構
- 石垣、曲輪、土塁、空堀、堀切
- 築城者
- 赤松貞範?
- 主要城主
- 赤松氏、荻野氏、斎藤利三、堀尾吉晴
- 築城年
- 建武年間 (1334~1338)?
- 廃城年
- 天正13年(1585)
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 続100名城スタンプ
- 春日住民センター
- 駐車場
- 無料駐車場(約5~7台)あり
- アクセス
- JR福知山線『黒井駅』より1km(徒歩13分で登山口)
- 舞鶴若狭道/北近畿豊岡道『春日IC』より2.2km(車で6分)