丹波亀山城は、織田信長公の命を受けた明智光秀が、丹波攻略の拠点として築城した。(天正5年頃) 「本能寺の変」後、豊臣時代には、その重要性から城内や城下町の整備がなされ、ついで江戸時代に入り、幕府が西国大名に命じ、「天下普請」により近世城郭として大修築がなされた。
しかし、300年余り続いた丹波亀山城も明治初頭に廃城令を受けて、天守はもとより、全てが払い下げとなり、多くの遺構や石垣までもが分割売りされ、各地へと散っていった。
残された城跡は荒れ果て、狐狸の巣くう丘陵台地となり、町の人々は「何が出るやら怖くて」通る人さえいない状態となっていった。
大正8(1919)年、亀岡出身の宗教法人「大本」の教祖・出口王仁三郎師は、荒れゆく亀山城の様に憤慨し、
まてしばし昔の城にかへさんと 雄たけびしたる若き日の吾 と歌に残した通り、亀山城跡を買い取った。
出口王仁三郎師は、大本信徒を動員して、残った石を土中から掘り起こし、元の亀山城石垣を復元した。そして、自然溢れる大本の聖地「天恩郷」として亀山城跡を甦らせた。
城跡は今、平和な世界と人類の幸福を祈る場となっている。<現地パンフレットより>