山崎城は木下勝俊が山城の篠ノ丸城を廃し、天正15年(1587)築いたお城。
この一帯が山崎城であり、別名を宍粟城と言っていました。
今から370余年前(元和元年6月)徳川家康の孫にあたる松平石見守輝澄が宍粟郡3万8千石をもらって山崎の地に城を築きました。
寛永8年、赤穂城主であった弟の政綱の死去により佐用郡と赤穂郡の内から3万石を加えられて6万8千石となりました。
寛永15年、御家騒動により、同17年、領地没収となり、代わって岸和田城より松平周防守康映が城主となり宍粟郡、佐用郡の内5万石を賜りました。この城は、宍粟、佐用を相和した城であることから城の名を『宍佐和(ししさわ)城』と名づけました。
周防守は城地を整え城下の繁栄を図りましたが、在城12年余りで慶安2年、島根県浜田に移りました。その後には、岡山県から池田光政の弟・松平備後守が城主となり宍粟郡の三万石を賜りました。
寛文11年、恒元が死去し、その子・豊前守政周が跡を継ぎましたが、延宝5年、政周が亡くなり養子の数馬が跡を継ぎました。
延宝6年、幼君・数馬も江戸で急逝、家を継ぐ子がなく、御家は断絶、領地は一旦幕府の領地となり、延宝7年、本多肥後守忠英が1万石の城主となりました。 前藩主・松平数馬の城地に館を造り、それ以来ここを『宍澤城陣屋』と呼びました。その後、藩主9代が継続し明治維新となり、明治5年、学制頌布により、この地の山崎藩邸がそのまま学校になり、現在の山崎小学校に至りました。
この左の門は、山崎藩陣屋門(神屋門)で町指定文化財となっています。左右の土塀と石垣も当時のものが残っています。<現地案内板より>