出石(いだいし)地区を流れる揖保川左岸の標高約168mの尾根上に築かれた山城(長水城の出城)で、明応2年(1493)宇野氏の重臣・下村氏によって築城されたと伝わる。
城郭としての規模は小さいものの、尾根の突端に東西約12m、南北約9mの主郭を置き、北側斜面に帯郭、西側斜面に腰郭を配して防備を固めている。また、主郭東側に二の郭・三の郭を置き、東端に高さ約2.6mの土塁を築いて敵の侵入を防いでいる。主郭からは宇野氏の本拠篠ノ丸城・長水城への眺望が開けており、実際には砦または見張り台的な城だったと考えられる。
江戸前期に成立した『宍粟郡守令交代記』によれば、天正8年(1580)4月、羽柴秀吉は対岸の篠ノ丸城・長水城に籠城する宇野氏を攻める為、背後の高取山を越えてまずこの城を落とし本陣を置いたという。また同書には、このとき黒田官兵衛が「篝(かがり)火に、宇野(鵜の)首見せる、広瀬かな」との発句を詠んだ事が記されている。しかし、本来この句は竹中半兵衛の子・重門が著した『豊鑑』に連歌師の里村紹巴の発句としてあるもので、官兵衛がこの合戦に参加していたかどうか真相は不明である。<現地案内板より一部加筆>