歴史
=利神城由来記=
赤松一族から最北端の防備の任をうけた、河西郡別所の構えにあった別所肥前守敦範が、貞和5年(1349)佐用郡に入り、比良福利神山に砦を築き、口長谷に館を構えて移り住んだことに始まる。
別所肥前守光則の代に嘉吉の乱が起こり、一時敗退したが応仁の乱に際し、別所靜治は風雲に乗じ、都の赤松政則を助け赤松家再興を図った功績により、旧領利神城主に復帰することができた。
天正6年(1578)1月2日
上月城にあった山中鹿之助は、突如利神城を攻めたが、時の城主別所日向守林治は城を出て瓶岩の地にこれを迎え討ったが叶うべくもなく家老磯部主計ら数名が敵中に切り込む間に城主は落ち延び、ここに赤松家は滅んだのである。
慶長5年(1600)関ヶ原の功により、池田三左衛門輝政、
姫路城に入る甥の家老池田由之に佐用郡2万3千3百石を与え統治を一任した。
由之は利神山山頂の砦を打ち壊し、5ヶ年の歳月をかけ、他の助成のないまま独力で巨大な城郭群と麓に常御殿と呼ばれる居館と武家屋敷を構えた。
口伝によると慶長10年由之の要請により、輝政は、落成なった利神城見分のため駒を進め、釜須坂頂上にさしかかるや、北方遥かに雲を凌いで聳え立つ巨大な城郭群に驚き、駒を返し使者を送り即刻破却を厳命したという。
今に残る利神城の絵姿や、山頂の石垣群を見て、往時の雄大さを偲ぶのみである。<現地案内板より>
コメント
平成29年10月13日、国史跡に指定された。本丸、二ノ丸、大坂丸等の石垣群が昔の姿を偲ばせているが、現在は登山道整備中のため入山禁止のようです。。
情報の乏しい現状での登山は危険と判断し、諦めざるを得なかった前回の登城から約2年…
今回は念入りに調べて訪れました。調べたからこそ、常に罪悪感を感じつつでの登城。
登城口は2箇所。1ヶ所は線路下を潜って柵を開けて入れるようです。が、『登山ご遠慮下さい』の看板があるので、もう1ヶ所から登城開始。こちらも看板はあるものの柵はなし。罪悪感を感じつつ登城するも至るところで崩落の跡。折角来たのに諦めるのも嫌なので、他の登山口を探すもどうやら2ヶ所のみのようです。結局、情報も乏しい現状での登山は危険と判断し利神城をあとにしました。
脱水症状を危惧しての下山はあるが、城(山)の整備状況が悪くての下山は初めての経験であった。もう一方の登山口から登っても、登山靴での登城でも危険なほどの山城のようです。整備も未定のようだし、近いうちにリベンジしなくてはと思っているものの本当に命懸けです…
オススメ ☆☆☆☆☆
規 模 ☆☆☆☆
難易度 ☆☆☆☆
アクセス ☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県佐用郡佐用町平福 (国史跡)
- 通称
- 雲突城、平福城
- 形式
- 連郭式山城 (標高 373.3m/比高 250m)
- 遺構
- 曲輪、石垣、空堀
- 築城者
- 別所敦範
- 主要城主
- 別所氏、宇喜多氏、池田氏
- 築城年
- 貞和5年 (1349)
- 廃城年
- 寛永8年 (1631)
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- なし (『道の駅ひらふく』の無料駐車場を借用)
- アクセス
- 智頭急行線『平福駅』より徒歩5分で登城口/登山口より約40分
- 中国自動車道『佐用IC』より3.5km(車で約5分)