歴史
中世に築かれた代表的な「平山城」で、南面に川、後背に山の「城堅固」の立地で、空堀、防塁、馬落とし等よくその原型を留めている。
元弘3年(1331)4月28日、淀の久我畷の戦いにおいて鎌倉方の総大将・名越尾張守高家をただ一箭に打ち取った佐用兵庫介範家の築城と伝えられ、その後、赤松三十六家衆のうちの福原氏がこの城を継いだので、福原城とも云われている。
戦国時代末期、東西の勢力拮抗の狭間で、西の
上月城、南の高倉城、東の
利神城と共に赤松一統の城郭群を形成していたが、天正5年(1577)11月、上方勢の羽柴秀吉との攻防により落城しその役割を終えた。
後世、土地の人々によって、時の城主・福原藤馬允則尚(とうまのじょうのりなお)の首級を祀るため城跡に一社が造営され、「福原霊社(俗に頭(こうべ)様)」として今に広く崇敬されている。<現地案内板より>
コメント
オススメ ☆☆☆
規模 ☆☆☆
難易度 ☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県佐用郡佐用町字福原
- 通称
- 佐用城
- 形式
- 平山城 (標高 150m/比高 m)
- 遺構
- 堀、土塁
- 築城者
- 佐用範家
- 主要城主
- 福原氏
- 築城年
- 建武年間 (1334~38)
- 廃城年
- ─
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- なし (観光用駐車場あり約3台:国道179号線を北に650m行った所)
- アクセス
- JR姫新線『佐用駅』より1.3km(徒歩17分)
- 中国自動車道『佐用IC』より4.5km(車で約10分)