沿革
戦後時代末期、この地方は西の徳川勢力と東の武田勢力との境界地帯となって攻防が続きました。
天正6年(1578)徳川家康は家臣の大須賀康高(初代城主)に命じて高天神城攻略の拠点として横須賀城を築かせました。天正9年(1581)高天神城は落城と共に廃城となり、横須賀城が遠州南部の拠点として位置づけられました。以後、明治維新で廃城となる迄の288年間20代の城主を数えます。
明治元年(1868)20代城主・西尾忠篤は明治維新の動乱の中、安房国花房(現千葉県鴨川市)に移され、横須賀藩は静岡藩に吸収されました。横須賀城は明治2年8月に廃城。更に明治6年には城内の土地、建物、石垣、樹木まで民間に払い下げられましたが、城跡消滅の危機に住民から保存の声が上がり、昭和56年5月8日付で国の史跡に指定されました。
地理的景観
初期段階の横須賀城の主郭部分と考えられる松尾山と本丸は、小笠山丘陵の先端部に山城として築かれ、近世中期まで二の丸等の平城部分が拡張付加されて、現在の横須賀城が完成したと考えられています。近世中期までは城の手前まで海が深く入り込み、三方が入江と沼や深田に囲まれた天然の要害の地でした。また、この入江には横須賀湊(みなと)があり、物流の拠点にもなっていました。
築城当時、この入江は同じ市内にある掛川城の外堀となっている逆川の河口だったと考えられており、当時横須賀城と掛川城は船で直接行き来することが出来たと考えられています。掛川城が陸の大動脈東海道の押さえであったのに対し、横須賀城は小笠山の南を通る浜筋道の押さえであると同時に海上交通の押さえであったと考えられています。
横須賀城の特徴
横須賀城(別称松尾城)は平山城として、山城から平城に移る中間期の特徴を備え、中世城郭と近世城郭の2つを併せ持っています。
また、普通1つしかない大手門が、この横須賀城には東西にあり「両頭の城」と云われたほか、「玉石積み」と呼ばれる丸い河原石を用いた石垣も、特徴としてあげられます。<現地案内板より>