歴史
岐阜城は、建仁元年(1201)鎌倉幕府の執事・二階堂山城守行政が稲葉山(金華山)に砦を築いたのがはじまりと伝えられています。戦国時代には、斎藤道三の居城でもあったところです。特に岐阜城の名を天下に示したのは、永禄10(1567)年(一説に永禄7年)8月、不世出の英傑・織田信長がこの城を攻略し、この地方一帯を平定するとともに、地名も「井の口」を「岐阜」と改称し、天下統一の本拠地としてからでした。しかし、慶長5(1600)年8月、関ヶ原合戦の前哨戦の際、信長の孫・秀信が西軍に味方した為、東軍に攻め入られ、激戦の末落城しました。翌慶長6年、岐阜城は廃城となり天守閣、櫓等は
加納城に移されました。
現在の城は、昭和31年7月、岐阜城再建期成同盟によって復興されたもので、鉄筋コンクリート造り、3層4階構造で延べ461.77㎡、棟高17.7mの威容を誇ります。城内は資料展示室、楼上は展望室として多くの人に親しまれています。<現地パンフレットより一部編集>
稲葉山山頂に聳える稲葉山城(岐阜城)は難攻不落のお城として名高く、『美濃を制する者は天下を制す』と云われ、斎藤道三、織田信長など天下取りの野望を抱き、ここを居城とした。
歴代城主 |
西暦 |
|
1、二階堂行政 |
1201-1204 |
二階堂氏の祖。鎌倉幕府の軍事目的の為に稲葉山に砦を築き、京の押さえとした。 |
11、斎藤道三 |
1549~ |
稲葉山城を大改築。1554年に家督を子・義龍に譲り、鷺山城へ移る。 |
12、斎藤義龍 |
1554~ |
道三の嫡男。道三を破り、信長を何度も撃退も、1561.5に急死。享年35。 |
13、斎藤龍興 |
1561~ |
義龍の嫡男。若年で跡を継ぐも、竹中半兵衛らによって城を奪われ一時占拠される。後に返還されるも1567.8に織田信長によって再び落城。 |
15、織田信長 |
1567~ |
道三の娘婿。この地を『岐阜』に改めた。1576年に安土城に移る。 |
16、織田信忠 |
1576~ |
信長の嫡男。信長の跡を継ぎ、安土城下町の繁栄に尽くす。本能寺の変で明智光秀の攻められ、二条新御所で戦死。享年26。 |
17、斎藤利暁 |
1582~ |
信忠の家臣。本能寺の変の際に城を乗っ取るも、織田信孝に敗れ、降伏。 |
18、神戸信孝 |
1582~ |
信長の三男。清洲会議後、三法師の後見役として伊勢神戸城から移る。1582.2、秀吉に攻められ開城し、三法師を引渡す。1583の賤ヶ岳の戦いで兄・北畠信雄に包囲され降伏、後に自害。享年26。 |
19、池田元助 |
1583~ |
大垣城主・池田恒興の嫡男。岐阜城下の加納に楽市楽座令を出す。1584の小牧・長久手の戦いで父子ともに討死。享年26。 |
20、池田輝政 |
1585~ |
池田恒興の次男。天守や櫓を築いて城を強固にした。1590年に三河吉田城に移り、のちに姫路城主となり、姫路城を修築。 |
21、豊臣秀勝 |
1591~ |
豊臣秀吉の姉の子(甥)。1592に総大将として朝鮮に出陣も 、巨済島にて病死。享年23。 |
22、織田秀信 |
1592~ |
信忠の嫡男。安土城から移り、1600.8東軍の福島正則、池田輝政らに攻められ開城。一旦は高野山へ入るも、後に追放、2ヶ月後に死去。享年26。 |
コメント
オススメ ☆☆☆☆
難易度 ☆☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 岐阜県岐阜市
- 通称
- 稲葉山城、井口城、金華山城
- 形式
- 山城 (標高 329m)
- 遺構
- 復興天守、石垣、曲輪、土塁、堀切
- 築城者
- 二階堂行政
- 主要城主
- 斎藤道三、織田信長、信忠、信孝、池田輝政、織田秀信
- 築城年
- 建仁元年 (1201)
- 廃城年
- 慶長5年 (1600)
- 開城時間
- 8:30〜17:30 (9:30〜16:30)
- 入城料
- 200円 (ロープウェイ 片道600円/往復1050円)
- 休城日
- 年中無休
- 駐車場
- 有料駐車場あり(岐阜公園駐車場 300円)
- アクセス
- JR/名鉄『岐阜駅』より 岐阜バス『N80高富』行き