応永31年(1424)8月、奥平貞俊が川尻城から移り、その後貞久・貞昌・貞勝・貞能・貞昌の5代が居城した。
天正元年(1573)8月、貞能・貞昌父子は、古宮城に本拠を持つ武田勢の攻撃を受けたが、石堂ヶ根・田原坂等に転戦してこれを敗走させた。天正3年(1575)この戦功によって貞昌は織田信長から長篠城主を命ぜられた。
同年5月、長篠・設楽ヶ原の戦いが勃発、長篠城は武田勢1万5千の猛功を受けたが、貞昌はよく籠城に耐え、織田・徳川連合軍の援軍を受け大勝した。戦後、貞昌は信長の一字を貰い信昌と改名、新城に築城してこれに入り、家康の長女・亀姫を嫁に迎えた。
慶長7年(1602)信昌の第4子・松平忠明が父祖の旧領である亀山城へ作手藩1万7千石の藩主として入城し8年間居城し、同15年(1610)伊勢亀山藩5万石の藩主として転じた。その後は元和元年(1619)頃の数年間三河代官として小川又左衛門氏綱が居城、それ以後は廃城となり現在に至っている。<配布パンフレットより>
亀山城は、応永31年(1424)に奥平貞俊によって築城された。貞俊は、天授年間(1375~1380)に現在の群馬県からこの地に移り住んで川尻城を築いた後、亀山城を築城してここに居城したとされている。その子孫は、この地で支配者としての地位を確立し、後に山家三方衆と呼ばれる有力土豪となった。16世紀になると、今川氏、松平氏、織田氏といった武将の配下を転々としながら、天正3年(1575)に徳川方となって長篠城の城主となった奥平貞(信)昌の長篠の戦いでの功績により、奥平氏は歴史に名を残すこととなった。
存続期間については、応永年間から城主が長篠城へ変わる天正年間の時期と慶長7~15年(1602~1610)に奥平信昌の4男・松平忠明が城主となっている2時期が知られている。<新城市HPより>