当城址は、甲斐の武田信玄が三河進出の拠点とする為、宿将の馬場美濃守信房に命じ元亀2年(1571)に築城したと伝えられている。
城址は、南北約200m、東西約250mの独立した小山全体から成っている。当時は、南・東・北の三方が湿地で地続きは西側のみで、防禦の主眼は西側に置かれている。一歩城址に踏み入ると土塁と壕が縦横に入り組み複雑な曲輪配置が見られ、中央部が南北の竪掘状の大堀切で東西のニ城に分けられた一城別郭式の城であった。
東は守備の中心で主将の居る所、西は前衛として敵の攻撃を少しでも長く拒む為の工夫が施された要害堅固な城であった。
西城の本丸は、粗正方形で、その東に二の丸が並び境として両端を空けた土塁があり、二の丸の東南隅と北側には虎口が設けられている。また、北側には5重の壕を擁して西側からの攻撃に備えている。
東城は、頂部において土橋で西城と繋がり、本丸に並んで2つの曲輪があり、その北部には多数の曲輪が見られる。本丸南側の両袖桝形虎口(内桝形)は、武田氏縄張りの特徴をよく伝えている。一部が社地等になっているが中世の城郭が粗完全に保存されているのは珍しい。
全山余すところ無く塁郭を配置したこの城も天正元年(1573)8月奥平・徳川連合軍の手によって落城した。<歴史民族館配布パンフレットより>