幕末、日本近海には通商を求める異国船が盛んに出没する様になったが、幕府は鎖国を徹底し、海岸防備に力を入れていた。鳥取藩でも砲台場を各所に造って防備を固めるよう準備に取り掛かっていたが、藩財政逼迫の折、計画は遅延していた。
こうしたとき、大阪の天保山砲台を警備していた鳥取藩の警備隊が、文久3(1863)年英国船を砲撃するという事件が起きた。藩では報復を恐れ、急遽大誠村瀬戸(現在の北栄町瀬戸)の竹信潤太郎に相談し、農民の協力を得ることに成功。由良台場、橋津台場を次々と築造し、文久3年中に藩内八箇所の台場が完成した。この台場築造に協力した人数は、延べ17万5千人と云われている。
現在、鳥取県内の台場は由良台場が粗完全な形で残り、次いで浦富、橋津の台場が大凡原形を留めている。
橋津台場は築造当時の図面が現存しておらず、また日本海の波浪に侵食され約3分の1が流出してしまっている為、本来どんな形をしていたのか長らく不明であったが、明治25年頃の台場の形を表した地図が見つかり、由良台場と似通った形状であった事が判明した。<現地案内板より>