歴史
幕末、黒船渡来による未曾有の国難に遭遇した江戸幕府は、開国か攘夷かに国論を二分したが、文久2年(1862)、朝廷は攘夷を決定、鳥取藩でも海辺防備のため因・伯海岸の要地に台場の構築を急いだ。文久3年(1863)、10月頃迄には野戦台場も含め11の台場に大砲の配備を完了している。
台場砲は、現大栄町(当時六尾村)の反射炉で鋳造した鉄製のもので大小の種類があったが、浦富台場には四門を配置、家老・鵜殿長道の持場であった。
台場の築造は、在方では農民の労役に頼ったが、守備もまた農兵(民兵)を組織し、洋式訓練を行なっている。元治元年(1864)の「岩井郡海辺村々絵図」によると、浦富台場は他にもう1箇所あったようである。西に約400mの同一線上にあり、浦富陣屋から海岸に向かって真直に当時の道が通じている(図)。現在この遺構は残っていないがその形は?形のものである。今もここはやや小高い地形となっている。
安政4年(1857)には、岩井郡で64名の「力者隊」の編成名簿もあり、文久3年頃になると庄屋を民兵隊長として郷士に取り立て、苗字帯刀をも許し、国難に立ち向う態勢を整えたのである。現在、県内に遺る台場は、僅か5ヶ所(
橋津・
由良・
淀江・境・浦富)である。
この浦富台場(東西の長さ約92m、南北約40m、高さ4m、塁上の最大幅員13mの両翼開放型で恰も鳥が羽を広げた形である)は、県東部(因幡地区)に遺る唯一のものであり、近代城郭史上からもその歴史的意義は大きい。<現地案内板より>
コメント
オススメ ☆☆
難易度 ☆☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 鳥取県岩美郡岩美町浦富
- 通称
- 鳥取藩台場
- 形式
- 台場
- 遺構
- 土塁
- 築城者
- 池田氏
- 主な城主
- 池田氏
- 築城年
- 文久3年 (1863)
- 廃城年
- ─
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- 無料駐車場あり
- アクセス
- JR山陰本線『岩美駅』より 車で5分(徒歩25分)