歴史
史跡岡城跡は、大野川の支流である稲葉川を北に、白滝川を南に臨む、標高325mの阿蘇溶結凝灰岩で形成された台地の上に築かれている。両河川は台地の先端部で合流し、天然の濠の役目を果たし、河川の内側は切り立った断崖絶壁になって、深い谷に取り囲まれている。
現存する岡城跡は、文禄三年(1594)中川氏が播州(兵庫県)
三木から入部して普請されたものである。城の造営は、初代藩主中川秀成により始められ、天神山を本丸とし、以前の大手であった下原口を搦手に、西南側に大手口を、北西側に新たに近戸口を切り開き、三つの門が出入り口となった。城の曲輪は、東から御廟の曲輪、東西の中仕切の間に本丸・二の丸・三の丸の曲輪、さらに西側に西の丸の曲輪が設けられた。
西の丸は、寛文四年(1664)に、三代藩主中川久清により隠居所として、御殿の普請が完成している。
石垣の普請は、石垣職人として有名な穴太衆と思われる「穴太伊豆」が大阪から呼び寄せられ工事にあたっている。その後、度重なる地震や風水害により城内各所が破損し、その都度石垣の修復が行われ、積み直した跡が今も見ることができる。
明和八年(1771)には城下町より出火した火が城内に移り、西の丸をはじめ、本丸・二の丸・三の丸・御廟・下原まで類焼して城内のほとんどの曲輪が焼失した。再建は、火災以前の幕舎の構成を基本的には踏襲して行われた。現在史跡内には、主要曲輪だけでなく近世城郭における各建物の遺構が残されている。
岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄が、源頼朝と仲違いをしていた弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが、惟栄は大物浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。
建武のころ豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、南北朝なかばの応安二年(1369)から後で、その城はきむれの城であった。のちに志賀氏の居城は岡城に移った。
天正14年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城をおそい、わずか18歳の志賀親次(親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。しかし、文禄二年(1593)豊後大友義統が領地を没収されると、同時に志賀親次も城を去ることになった。
文禄三年(1594)二月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成(ひでしげ)が総勢四千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし、急ぎ近世城郭の形をととのえ、本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文三年(1662)には西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった。
明治二年(1869)版籍奉還後の四年(1871)には、14代・277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物は七年(1874)大分県による入札・払い下げですべてが取り壊された。<現地案内板より>
コメント
今回の旅で
名護屋城と共に特に楽しみにしていたお城が岡城です。共通して都市部から離れていて容易に二度目とはいきません。岡城の楽しみは入城料と引き換えに頂ける巻物状の縄張図(未だに開封してません)、滝廉太郎の荒城の月。
帰る頃には口ずさんでしまうというメロディーは何故か一度も耳にしませんでした(笑)
さて岡城ですが、何ともスケールがデカく、いつも通り小走りで周っても一時間半位かかり分刻みのスケジュールの旅には大きなロスです。が、半日、一日居ても飽きそうになかったです。ただ残念だったのが、運よく天気が良かったのに買ったばかりのカメラの色合いがおかしく、HP作成時に確認するとなんと写真映りの悪い事(-_-;)
アクセス難でも必ず再訪しますが、お城めぐりには慣れた靴と慣れたカメラで!が今回の収穫です(笑)
オススメ ☆☆☆☆☆
規模 ☆☆☆☆☆
難易度 ☆☆☆☆
アクセス ☆☆☆☆
データ
- 所在地
- 大分県竹田市竹田
- 通称
- 臥牛(がぎゅう)城、豊後竹田城
- 形式
- 山城 (標高 325m)
- 遺構
- 天守台、曲輪、石垣
- 築城者
- 緒方惟栄
- 主要城主
- 志賀氏、中川氏
- 築城年
- 文治元年(1185)
- 廃城年
- 明治4年(1871)
- 開城時間
- 9:00~17:00
- 入城料
- 300円
- 休城日
- ─
- 100名城スタンプ
- 観覧徴収所 (総役所跡)
- 駐車場
- 有 (無料:120台)
- アクセス
- 豊肥本線『豊後竹田駅』より 徒歩25分(車で約5分)