歴史
宇土城は天正16年(1588)に肥後南半国(宇土・益城・八代の三郡)の領主となったキリシタン大名・小西行長が翌年の天正17年(1589)から築城を開始したいわれている近世城郭である。この城は小西行長が宇土に入る前からあった中世の宇土城(西岡台)と共に見ると鶴が翼を広げているように見えるので別名『鶴の城』ともいわれます。
通称『城山』と呼ばれる小高い丘の最高位(標高16m)に内堀で囲まれた本丸が位置し、二ノ丸や三ノ丸がそれそれ本丸西側と南側及び東側に配置されている。これらを大規模な外堀が取り囲むという竪固な縄張りで、外堀まで含めた城域は南北約500m、東西約550m、面積は約20万㎡と広大である。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで敗れた行長が処刑された後、肥後一円(球磨・天草を除く)を治めた加藤清正は、自身の隠居所とするため大規模に改修(普請)を行なった。(『肥後宇土軍記』の中に、記述があり、発掘調査の結果、本丸には約2mの盛土があり、小西時代のものはその下から出てくる事等から、今現在目にする事が出来るこの石垣は、加藤清正が積上げさせたものだと考えられます。石垣の積み方は打ち込みハギといわれるもので、
熊本城と同じ積み方です。ただこの石垣も見えているのは半分程度で、地面の下には、地上の石垣と同じ位の高さの石垣が埋まっています。)
しかし、清正は隠居することもなく慶長16年(1611)に死去し、翌年、幕命により城は破却された。さらに寛永14年(1637)の天草・島原の乱後も徹底的に破壊された為、往時の姿は留めていないが、この石垣は二度の破壊を潜り抜けた貴重な石垣といえます。
昭和40年代、県立宇土高等学校社会部による発掘調査が行なわれ、石垣などの城郭遺構が検出された。また、本丸跡の公園整備工事に伴う発掘調査(昭和53~57年)が実施され、新事実が次々と明らかになった。
調査の結果、当初『小西時代』と考えられてきた石垣や門礎(もんそ)、排水溝などの城郭遺構(上層期遺構)のさらに1.5~2mほど地下から、石塁や礎石建物跡などの下層期遺構が発見された。下層期遺構は『小西時代』、上層期遺構は『加藤時代』の城郭遺構に相当するとみられ、宇土城跡の変換を考える上で大きな成果となった。
出土品は、中国製陶磁器(青磁、白磁、染付)、国産陶磁器(備前焼、瀬戸焼、唐津焼)、銃弾、瓦などがある。なお、本丸周辺では大砲の一部や『慶長十三年銘』の滴水瓦が採集されている。<現地案内板2つより抜粋>
コメント
オススメ ☆☆☆
難易度 ☆☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 熊本県宇土市古城町(城山公園)
- 通称
- 鶴の城
- 形式
- 平山城
- 遺構
- 曲輪、石垣、空堀
- 築城者
- 小西行長
- 主な城主
- 小西行長、加藤清正
- 築城年
- 天正17年(1589)
- 廃城年
- 元和2年(1616)
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- 無料駐車場2ヶ所あり(計約20台程度)
- アクセス
- JR鹿児島本線『宇土駅』より 徒歩約30分(自動車10分)
- 九州自動車道『松橋IC』より 自動車約15分