歴史
位置と歴史
中世宇土城跡は、通称『西岡台』と呼ばれる標高約39mの小高い丘陵上にあります。西岡台の東約500mにはキリシタン大名・小西行長公が16世紀末に築城した近世
宇土城跡(城山)があるため、西岡台の宇土城跡を『中世宇土城跡』や『宇土城跡(西岡台)』、『宇土古城』等と呼んで区別しています。
中世宇土城跡南側に位置する西岡神宮の古い記録によれば、平安時代の永承3年(1048)に宇土城が造られて以後、菊池氏の一族が代々城主であったとされています。室町時代には、宇土氏と名和氏が宇土城主となりました。
宇土氏は、宇土庄(現在の宇土市街地周辺)の荘官の地位にあり、菊池氏の一族と伝えられる武家領主です。古くから宇土に勢力をおいていましたが、文亀3年(1503)に守護職・菊池氏との争いに敗れて滅びました。
一方、名和氏は室町時代の初め頃から八代市付近に勢力をおき、古麓城(八代市古麓町)を本拠としましたが、文亀4年(1504)、相良氏と菊池氏に攻められ、八代を出て宇土へ移り宇土氏滅亡後の宇土城に入城しました。以来、80年余り名和氏は宇土城主になりましたが、名和氏が宇土を拠点としてからも、相良氏とは豊福城(宇城市松橋町)をめぐって何度も争いました。
相良家の古文書『八代日記』によれば、宇土城跡は天文7年(1538)と同11年(1542)の2度にわたって火災が発生したことが記録されています。また、天正3年(1575)に薩摩の島津家久公が京都への旅の途中、松橋から道を北へと進んでいる時、左の方角に『宇土殿の城みえ侍(はべ)り』(宇土殿「名和氏」の城が見える)と言ったことが『家久君上京記』に記されています。城を使わなくなった時期は、行長公が近世宇土城の築城を開始した16世紀末頃と考えられます。
縄張り-城の構造-
戦国時代(15世紀後半から16世紀後半)を中心に日本列島に数多く造られた中世城は、自然地形を出来る限り活かし、重要場所や守りが弱い場所に堀や土塁などを造って敵の侵入を防いでいました。熊本城のように石垣を備える近世城は『石造りの城』と呼ばれるのに対し、中世城は『土つくりの城』と呼ばれる理由となっています。また、『曲輪』と呼ばれる堀や柵で防御された広場には、天守閣のような立派な建物はなく、瓦さえも使わない掘立柱建物が建てられるのが普通で、中世宇土城も例外ではありませんでした。
西岡台の頂上部には東西に並ぶ2つの曲輪があります。東側の曲輪は『千畳敷』と呼ばれており、周囲に人工的に削り出した切岸という崖や堀を配置し、敵の侵入を防ぐ工夫をしています。同じく西側は『三城』と呼ばれ、堀は確認されていませんが、切岸で守りを固めています。また、三城の西側には幅約10m、深さ約7mの巨大な堀と、その西側に平行して土塁が築かれています。
西岡台の南側斜面は、幅広い平坦地が連続しており、『オオテ』(大手)と伝えられる地点や麓には中世以来の古道『三角道』があります。この周辺に、領主(殿様)や家臣が生活していたと考えられます。<現地案内板より>
コメント
オススメ ☆☆☆
難易度 ☆☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 熊本県宇土市古城町
- 通称
- 西岡台、名和城、中世宇土城
- 形式
- 平山城(標高 40m、比高 39m)
- 遺構
- 曲輪、石垣、空堀
- 築城者
- 藤原頼道、菊池一族?
- 主要城主
- 菊池氏、宇土為光、名和氏
- 築城年
- 平安時代中期、永承3年(1048)
- 廃城年
- 天正16年(1588)
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- なし?
- アクセス
- JR鹿児島本線『宇土駅』より2.9km(車で10分、徒歩30分)
- 九州自動車道『松橋IC』より9.5km(車で18分)