歴史
別名、国分御屋形跡(おやかたあと)国分新城とも呼ばれている。島津義久は慶長9年(1604)
富隈城から移居し慶長16年79歳で死去するまで在城した。後に義久の三女の亀寿姫が寛永7年(1630)死去するまでの20年間をこの城で過ごした。その後この城の隣接地に地頭館(じどうやかん)がおかれ、清水、襲山(現在の重久)、敷根の各地頭館と並んで、国分郷の政治と警備の中心として幕末に至っている。
舞鶴城は山城の南麓に造営され、平時は軍事・行政が執行されるが、戦時になると城山(隼人城)に立籠もるという方法がとられた。築城の際、山麓一帯(現在の市街地)も城に合わせて区割りを行い、基盤目のような整然とした町並みは現在の市街地の基盤となっている。<現地案内碑より>
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難易度 ☆☆
アクセス ☆☆☆☆
データ
- 所在地
- 鹿児島県霧島市国分中央2-5-1
- 通称
- 国分御屋形、国分新城
- 形式
- 平山城
- 遺構
- 門、石垣、堀
- 築城者
- 島津義久
- 主な城主
- 島津氏
- 築城年
- 慶長9年 (1604)?
- 廃城年
- 明治10年(1877)
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- なし (近くの路側帯に停車)
- アクセス
- JR日豊本線『国分駅』より バス/『中の馬場』下車 徒歩約5分