歴史
富隈城は島津16代義久によって築かれた城で、平地にあり、小山を本丸代わりにした平山城です。この城は、東西約150m、南北約250mの方形で西・東・北側に堀があったといわれ、現在は北と東側に堀の跡が残っています。
城の造りは、天守閣がない館形式で城門も茅(かや)葺きであったということです。西側や東側には、野面積みという技法で積まれた石垣が残っていますが、これは肥後(熊本)八代の種山の石工たちが築いたものだと伝えられています。
義久は、文禄4年(1595)から慶長9年(1604)まであしかけ10年間ここに居住しました。義久が富隈に来たのは、豊臣秀吉の島津征伐に敗れ、降伏した意志を表すため、鹿児島の城を弟・義弘の息子・家久に譲り、富隈に隠居の形をとった為だといわれます。義久在城の間、朝鮮出兵、関ヶ原の戦いなどが相次ぎ、日本は激動し、島津氏にとっても苦難の時代でした。義弘が関ヶ原で家康の本陣を突き、敵中突破して僅かの家臣と帰り着いて、兄と対面したのもこの富隈城でした。朝鮮出兵にも富隈衆が多数参戦しました。また秀吉の勘気にふれ、文禄元年(1592)薩摩の坊津に流された近衛信輔(関白の位に就く、書道の達人で三藐院(さんみゃくいん)流の祖)も文禄5年(1596)許されて帰京の途中この城に立ち寄り、歌会や能楽等を行なっています。
このように富隈城は市史はもちろん県史・国史にも逸することのできない史跡であるので、旧町では大切な文化財として指定し、末永く保存することにしました。なお城内には島津氏が氏神として崇拝した稲荷神社が祭られております。
大昔、この付近は海で、住吉崎として住吉一神だけ祭られていましたが、永和元年(1375)大隅の守護職、第6代島津氏久が島津の元祖・忠久・忠久夫人と合わせ祭って、一ノ宮大明神としました。その後、島津義久が富隈に居住した慶長4年、さらに島津家の氏神、稲荷神を勧請(かんじょう)して稲荷神社と称しました。
こうして、もともと住吉崎の漁業・航海の神様であった神社に、五穀豊穣の神様が加わり、今に変わらぬ人々の尊崇を集めています。<現地案内板より>
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難易度 ☆☆
アクセス ☆☆☆☆
データ
- 所在地
- 鹿児島県霧島市隼人町住吉
- 通称
- ─
- 形式
- 平山城(標高 32m)
- 遺構
- 曲輪、石垣、堀
- 築城者
- 島津義久
- 主な城主
- 島津義久
- 築城年
- 文禄4年 (1595)
- 廃城年
- ─
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- なし (稲荷神社参拝者用駐車場を利用)
- アクセス
- JR日豊本線『隼人駅』より バス/『大里』下車