歴史
大野城は白村江の戦い(663年)の後、唐・新羅からの侵攻に備えて西日本各地に築かれた山城の一つで、北西の水城、南方の基肄(きい)城、と共に
大宰府政庁を中心とした防衛ラインを形成していました。この山城は百済の亡命高官2名による戦略的転技術的指導のもと築城されたことが『日本書紀』に記されることから、一般に朝鮮式山城と呼ばれています。大野城は政庁の北に聳える四王寺山中(標高約409m)にあり、北は博多湾から南は筑後方面を眼下に納める絶好の場所に立地し、山頂と山腹に土塁が、谷間には石垣が構築されています。現在、確認されている城内への入口は5ヶ所あり、食料の備蓄や居住に利用されたと考えられる70棟余りの建物が丘陵を造成した平坦面に残されています。
百間石垣は大野城の北の要(宇美口)に位置し、石垣の全長は150m以上あり城内最大の規模を誇ります。石垣の大半は頑強な岩盤の上に構築され、裏込めに栗石を使用した透水性の高い断面構造をなし、石垣の南側には地下水を排出するための吐水口が設置されるなど、水に配慮した当時の技術の高さを窺い知ることができます。
昭和48年の水害によって百間石垣の前を流れる川が氾濫、土砂崩れも重なり石垣は大きな被害を受けました。復旧工事に併せ発掘調査を行なったところ、石垣の基礎や川の中から城門の礎石と考えられる石材が発見されました。平成13年度からは石垣の保存の為に修理が始められ、この時行なわれた工事で中央の石垣の裏から版築状の盛土が発見されるなど新たな知見を得ることができました。ところが、平成15年7月の集中豪雨によって山林が崩壊、この土砂災害によって百間石垣は甚大な被害を受けます。工事は一時中断しましたが、復旧に取り組んだ結果、現在のような姿によみがえりました。<現地案内板より>
コメント
ナビで正確な場所が特定出来なかった為、県民の森を目指す。その道中に百間石垣を発見。取りあえず駐車場がないのでスルーし、スタンプをゲット後また戻って散策。この後、
岩屋城を目指すルートだったのでロスでした。太宰府駅利用の場合は岩屋城、県民の森、大野城の順が効率的ですね。車で福岡方面からだと逆のルートになります。
さて大野城ですが、規模が大きすぎる為、今回の目的は主に百間石垣ですが、五月にもなると下草で石垣もよく見えません、というのを他サイトを拝見して感じました。山城めぐりも秋から4月までですね(-_-;)
オススメ ☆☆
規模 ☆☆☆☆☆
難易度 ☆☆☆☆
アクセス ☆☆☆☆
データ
- 所在地
- 福岡県太宰府市観世音町 ほか
- 通称
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- 形式
- 山城 (標高 410m)
- 遺構
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- 築城者
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- 主要城主
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- 築城年
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- 廃城年
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- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 100名城スタンプ
- 県民の森 他
- 駐車場
- なし (路側帯に約5台)
- アクセス
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