三雲城(吉永城)は、三雲氏の主家である安土の観音寺城主・佐々木六角高頼が逃げ込み用の本城として長亨2年(1487)に三雲典膳(てんぜん)に築かせた城で、東西約300m、南北約200mにも及ぶ広大な城域を有していました。しかし、織田信長の京都侵攻に際して三雲氏は最後まで主君の六角氏に従ったために元亀元年(1570)に織田方の佐久間信盛の攻撃を受けて山裾にある三雲屋敷と共に落城しました。その後、天正年間(1573年〜)には廃城となってしまいましたが、天正13年(1585)に甲賀市水口町に豊臣秀吉の家臣の中村一氏が岡山城を築いた際に石垣等が用材として持ち去られたと言われています。
城の縄張りの中心部は、四ヶ所の郭(くるわ)によって構成されており、北側の郭は約50m×40mの広さがあり井戸も残っています。また北側の郭の北東部分には三方を巨大な石材を用いた穴太(あのう)積みによって築かれた22,4m×12mの大きな枡形遺構(虎口)が残っています。
当城は、六角氏が度々逃げ込んだことが記録に残されており、城内には佐々木六角氏の家紋(四つ目結)を刻んだ石が残っています。<現地案内板より>