歴史
1、位置と城史
山宮城は円山川支流の稲葉川左岸、山宮集落東側、標高251mの山頂に所在する。集落との比高は約65mある。城域は東西約140m・南北約210mを測る。
城主は太田垣式部と伝承され、天正8年(1580)羽柴秀長の但馬攻めの時、水生城合戦に参加し、敗退したという。また山宮の中央付近には、土塁で囲まれた小さな城や「西の城」(姫君の居所)という字名があったともいう(『但馬の城』『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』『日高町史・上巻』)。しかし、それを裏付ける一次史料はない。
2、城の構造
城は、主郭1の背後(北東側)を二重の堀切・竪堀で遮断し、主郭1から2方向に延びる尾根に小曲輪群を連郭式に配置し、数多くの竪堀群で守備する縄張りである。
主郭1は東西12m・南北6mを測る小さな曲輪で、その北東尾根に二重の堀切・竪堀を設けている。堀切Bは幅11m・深さ8m、竪堀ウは幅4m・長さ45m、竪堀エは幅4m・長さ24mを測る。また、堀切Aは幅3m・深さ2m、竪堀アは幅2m・長さ5m、竪堀イは幅2m・長さ10mを測る。
主郭1の北西尾根は、8段程の小曲輪(曲輪2=7×9.5m、曲輪3=14×8m等)と5条の竪堀で守備されている。竪堀カは幅4m・長さ35m、竪堀キは幅4m・長さ35m、竪堀ケは幅3.5m・長さ15mを測る。また、横堀(幅2.5m)を伴う竪堀クは幅4m・長さ27mを測り、その竪堀は堀切状となって南に分岐している。
主郭1の南尾根には、15段程の小曲輪と2条の堀切、竪堀群(畝状竪堀)が配置されている。主な曲輪の大きさは、曲輪4が6×7m、曲輪5が7×7m、曲輪6が3.5×23m、曲輪7が12×5m、曲輪8が9×8m、曲輪9が幅4m、曲輪10が5×25m、曲輪11が5.5×8.8mを測る。堀切Cは幅6.5m・深さ5m、竪堀カは幅4m・長さ25m、竪堀キは幅4m・長さ30mを測り、竪堀クは幅3.5m・長さ10m、竪堀ケは幅2.5m・長さ15mを測る。堀切Cは幅8m・深さ6mを測る。
また、竪堀コは幅2m・長さ15m、竪堀サは幅2m・長さ20m、竪堀シ・スは幅2m・長さ9~10m、竪堀セ・ソ・タは幅2m・長さ13~15m、竪堀チは幅4m・長さ27m、竪堀ツは幅2.5m・長さ14mを測る。
3、まとめ
山宮城は尾根に小曲輪群を階段状に構築した城を、数多くの堀切・竪堀や竪堀群で大改修した点に特徴がある。小曲輪群による縄張りは、南北朝期「村の城」として造成されたもので、戦国末期に至り竪堀群や畝状竪堀による大改修が成されたものと思われる。
城は戦国期、垣屋氏の本城
楽々前城の本城支城網に組み込まれ、豊岡・日高方面への通路を押さえる役割を担っていたものと推察される。<豊岡市の城郭集成Ⅱより>
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データ
- 所在地
- 兵庫県豊岡市日高町山宮字向山
- 通称
- ─
- 形式
- 山城 (標高 251m/比高 65m)
- 遺構
- 曲輪、堀切、竪堀、横堀
- 築城者
- 不明
- 主要城主
- 太田垣式部?
- 築城年
- 南北朝期?
- 廃城年
- 不明
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- 未確認
- アクセス
- JR山陰本線『江原駅』より
- 北近畿豊岡自動車道『日高神鍋高原IC』より