歴史
1、位置と城史
竹貫城は円山川支流の八代川左岸、竹貫集落北側、標高約193mの丘陵に位置する。
水生城の西側にあり、尾根続きで約440m離れている。
集落との比高は約180mある。城域は東西約160m、南北約140mを測る。
城主や城史に関する伝承はない。しかし「日光院文書」の中には、延徳2年(1490)と永正8・9年(1511・1512)に日光院に土地を寄進した竹貫氏の名が見える。
延徳2年12月には、竹貫右京進高次が小佐郷二分内加屋野かなるの田畠2ヶ所を日光院に寄進している。また同じく竹貫高次が、永正8年8月には「小佐郷二分方の内名主職」、永正9年4月には「小佐郷分野字地内名田1段」を日光院に寄進している。
上記史料は城主に直結するものではないが、「竹貫」を冠した氏名をもつ竹貫氏を城主と考えることも可能であろう。
2、城の構造
主郭1は東西約85m・南北約30mと長大な曲輪で、北西側に2ヶ所の坂虎口、東側に鉤状の土塁をもつ外桝形虎口を設けている。外桝形虎口の東側には低い土塁をもつ長い曲輪2(東西50m・南北20m)があり、その南側の中程に内桝形虎口が掘り込まれている。
また主郭1南側には、曲輪3(15×10m)と曲輪4(15.5×45m)を配置している。曲輪4にも虎口を設けている。
3、まとめ
竹貫城は、水生城の西端を守護する城砦という見方もあるが、外枡形虎口と内枡形虎口が二重の防御虎口となって水生城側を向いていること、各曲輪の規模や在り方が水生城とは大きく異なる事などから、天正6~8年にかけて羽柴秀長軍が水生城を攻めた時に構築した陣城と思われる。
しかし元は竹貫氏が築城した在知的な縄張りをしていたものと思われ、それを織豊勢力が大改修したものと考えておきたい。<豊岡市の城郭集成Ⅱより>
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データ
- 所在地
- 兵庫県豊岡市日高町竹貫字才谷
- 通称
- ─
- 形式
- 山城 (陣城?)(標高 193.2m/比高 180m)
- 遺構
- 曲輪、土塁
- 築城者
- 不明
- 主要城主
- 竹貫氏?
- 築城年
- 不明
- 廃城年
- 不明
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- 未確認
- アクセス
- JR山陰本線『国府駅』より
- 北近畿豊岡自動車道『日高神鍋高原IC』より