歴史
1、位置と城史
倉見陣屋は小野川右岸、倉見集落北側の山裾、2つの尾根に囲まれた標高10.9mの谷部に立地する。絵図などが残されていない為、その範囲は明らかではないが、現在の遺構から判断すると東西約100m・南北約100m程あろう。
寛文6年(1666)第4代
出石城主小出吉英(5万石)の死後、その遺領を長男吉重が45,000石で継ぎ、残る5,000石を3人の弟に分封した。輙ち、二男英本に出石郡2,000石(倉見小出家)、三男英信に養父郡2,000石(大薮小出家)、四男英勝に気多郡1,000石(山本小出家)が与えられ、旗本の小出3家が成立した。
倉見小出家の祖である英本の所領として、倉見・長谷(豊岡市)、三原・東里・日向・西野々・高竜寺・畑山・赤花の一部(但東町)が与えられ、倉見に陣屋を設けた。陣屋は初め「字中地の古屋」であったが、享和3年(1803)「字石谷」に移転した。倉見小出家は、幕末まで存続した。
2、陣屋の構造
倉見陣屋は集落の中心部とは尾根を隔てた、北側の谷部に所在する。陣屋を囲繞する尾根には、古墳は存在するが、陣屋に関する平地などの遺構は認められない。
陣屋の中心には、門跡や石垣のある平地1である。平地1は東西約44m、南北約66mを測る。西側(前面)に幅3.3mの虎口(門跡)と高さ3.2mの石垣、南側に低い石垣を構築している。門跡から旧道にかけて、幅4.8m・長さ43.2mの通路が設けられており、石垣の前面には土塁で堰止めた幅約6mの(「池」)がある。通路の北側は現在畑地となっており、堀(池)は無かった様である。平地1の北西側には突出部(16×9.4m)が構築されているが、石垣は確認出来ない。尚、門跡南側の石垣には継ぎ足した跡が見られ、時期は不明であるが、陣屋の拡張が行われた様である。
平地1の東側は一段高くなっており、平地2が設けるられている。平地2には現在妙見道が所在するが、西側の水の手がある平地はかなり広く(約20×20m)、何らかの建造物が所在したものと思われる。平地3は緩斜面となっており、建物は無かったであろう。
平地5(37×27m)と平地4には石垣などが見られないが、何らかの陣屋関連建物の所在が想定される。平地5上部の平地6(20.5×14m)の役割は不明である。
3、まとめ
倉見陣屋には、前面に石垣や堀を部分的に構築しているものの、上段にあたる平地2には石垣は見られない。また陣屋背後の尾根には、曲輪等の城郭遺構は設けられていない。
陣屋には門はあるものの、石垣や堀などは形だけとなっており、全体として防御性に乏しい。<豊岡市の城郭集成Ⅰより>
コメント
たまたま仕事で前を通りかかったので、ほんの少しだけ立ち寄りました。
道路沿いですが、奥まった所にあり分かりづらい所に位置しています。『倉見』バス停を特定できれば、そこからすぐです。
動物下山防止の為か、神社老朽化の為かは定かではありませんが、現在は柵がしてあり、中には入りづらくなってます。その為、仕事中ですし、簡単に写真を撮って退散しました。
オススメ ☆
難易度 ☆
アクセス ☆☆☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県豊岡市倉見字石谷 (妙見神社)
- 通称
- ─
- 形式
- 陣屋
- 遺構
- 石垣、土塁、堀
- 築城者
- 倉見小出氏
- 主要城主
- 倉見小出氏
- 築城年
- 享和3年 (1803)
- 廃城年
- 不明
- 開城時間
- 常時?
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- なし
- アクセス
- JR山陰本線『豊岡駅』よりバス15分/全但バス『倉見』下車 徒歩2分