歴史
1、位置と城史
河谷城は六方川右岸、河谷集落東側、標高202mの山頂に所在し、衣笠山城とは尾根続きで直線距離で約60mしか離れていない。河谷集落との比高は約190mを測る。城域は東西約210m、南北約90mを測る。
城主や城史に関する伝承はないが、中谷側に小字「殿替」があり、城主居館跡が想定されている(『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』兵庫県教育委員会 1985)。
2、城の構造
城は、主郭1を中心にして3方向に延びる尾根に曲輪を配置し、要所に堀切や堀切・竪堀を構築した縄張りである。
主郭1は東西21m、南北15mを測り、中程に櫓台状の高まり(7×4m)をもつ。曲輪2は15×25mあり、主郭1との間に浅い堀切A(幅3.7m・深さ1m)を設けている。また、曲輪2の南と北側には幅4m程の帯曲輪(3・4・5)を構築している。
主郭1の北側には、ニ重の堀切・竪堀を構築して尾根筋を遮断している。堀切Bは幅6m・深さ5m、竪堀(ア・イ)は幅4m・長さ10~15mを測る。堀切Cは幅5m・深さ1.5m、竪堀(ウ・エ)は幅3~4m・長さ6~7mを測る。
主郭1の南西尾根には4段程の曲輪を配置している。曲輪6(6.5×5m)・曲輪7(9.5×5m)・曲輪9(14×13m)は小曲輪であり、曲輪8(15×27m)は自然地形を残した緩斜面となっている。
また、曲輪9から西側に下った尾根にも曲輪10(15×8m)と緩傾斜地11が構築されており、その西下斜面には明確ではないが畝状竪堀の痕跡が窺える。
3、まとめ
河谷城は、比較的曲輪が狭く、自然地形を残すなど削平が甘く、曲輪間も可也の間隔が見られる。この様な特徴から、築城時期は南北朝から室町期が想定されよう。しかし、堀切・竪堀や畝状竪堀は戦国期の改修を窺わせる。衣笠山城の項でも指摘したが、両城は一連の城郭と判断され、戦国期に堀切・竪堀や畝状竪堀で改修されたものと思われる。
衣笠山城と河谷城を合わせれば可也広い城域を有し、南北朝から室町期にかけて相当な勢力の存在が想定される。両城は、河谷・中谷・三宅集落の地侍連合の城とみる事も可能ではなかろうか。<豊岡市の城郭集成Ⅰより>
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規 模
難易度
アクセス ☆☆☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県豊岡市河谷字ヤゲン谷
- 通称
- ─
- 形式
- 山城(標高 202m/比高 約190m)
- 遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀
- 築城者
- 不明
- 主要城主
- 不明
- 築城年
- 南北朝~室町期?
- 改修年
- 戦国期?
- 廃城年
- 不明
- 開城時間
- 常時?
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし?
- 駐車場
- 未確認
- アクセス
- JR山陰本線『豊岡駅』より
- 北近畿豊岡自動車道『日高神鍋高原IC』より