歴史
備後衆山城は円山川支流の六方川右岸、日撫集落南側、北東から延びる尾根の中程標高約26mに立地する。日撫谷を挟んで北側に
鶴城が所在する。集落との比高は約22mを測る。城域は東西約70m、南北約90mを測る。現在、主郭には稲荷社が祀られている。
城主については、「備後衆山」という城名から、備後の山内氏が守備したものと推定されている(『兵庫県の地名Ⅰ』平凡社)。康正2年(1456)6月、山内泰通は九日市で山名宗全から亡父跡の知行安堵を受け(山名持豊判物・山内泰通覚書『山内首藤家文書』)、明応2年(1493)5月には山内通久が篠岡庄内篠岡長門守跡などを山名俊豊から恩給されている(山名俊豊判物『山内首藤家文書』)。
しかし戦国期の城主や城史に関する史料は不明である。
城は、昭和61年(1986)円山川河川改修工事に伴って発掘調査された。現在、主郭の一部と曲輪2、南側の堀切・堅堀などは消滅している。
中略
城主については備後衆が守備した可能性はあるが、位置的に鶴城との関係が強く、田結庄氏の「出城」と思われる。
城の縄張りは堀切・竪堀や畝状竪堀の存在から、戦国末期の様相が顕著である。
轟城主・垣屋豊続によっと鶴城主・田結庄是義が戦った天正3年(1575)の野田合戦以降、鶴城と同様垣屋豊続によって、畝状竪堀による改修が成されたものであろう。<豊岡市の城郭集成Ⅰより>
コメント
オススメ ☆☆☆
規 模 ☆☆
難易度 ☆☆
アクセス ☆☆☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県豊岡市日撫字宮ノ下、梶原字谷ノ奥
- 通称
- ─
- 形式
- 砦(標高 26m、比高 22m)
- 遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀
- 築城者
- 不明
- 主要城主
- 備後衆?
- 築城年
- 不明
- 廃城年
- 不明
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- ─
- アクセス
- JR山陰本線『豊岡駅』より