歴史
戦国時代に多紀郡(現・丹波篠山市)を支配した戦国領主・波多野氏は、応仁の乱(1467~77)の戦功によって、室町幕府管領・細川政元から多紀郡を与えられ、八上に本拠を構える。波多野氏は、まず殿町に奥谷城(蕪丸)を築き、その後本城である
八上城を築く。
法光寺城は、八上城西麓の殿町に存在した城下町を守る為に築かれた支えの城である。法光寺城の築城によって、城下町はその西に強固な防衛線を有することになる。
法光寺城築城の時期は、天文年間(1532~54)頃と見られる。永禄2年(1559)、波多野氏が、摂津芥川城主・三好長慶の軍に八上城を攻められた際、法光寺城が敵将・内藤宗勝の手に、一時わたったという記録がある。
法光寺城は、東西南北の尾根に曲輪と呼ばれる防御陣地が6ヶ所にわたって展開し、一部には土塁や堀切も見られる。
この強固な防衛線が崩され、波多野氏の滅亡に繋がるのが、織田信長による八上城攻めである。八上城は、天正6年(1578)から、信長が派遣した明智光秀、丹羽長秀、滝川一益の軍に攻撃され、厳しい籠城戦を強いられる。
光秀は、八上城の周囲を堀と柵で囲い、獣が這い出る透き間もない程に徹底包囲する。籠城者は、初めは草木の葉を食べ、次に牛馬を食べ尽くし、城から出てきた者は悉く切り捨てられたと記録されている。最後は、城内で裏切りがあり、波多野秀治ら3兄弟が捕らえられ、八上城は落城する。<現地案内板より>
コメント
事前調査と違う所に足を踏み入れ、予想以上の傾斜と下調べ不足で危険と判断し、退散しました。
今回は位置を確認できただけで取り敢えず満足です。
オススメ ☆☆☆
規模 ☆☆☆☆
難易度 ☆☆☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県丹波篠山市西八上
- 通称
- ─
- 形式
- 連郭式山城(標高 340m/比高 120m)
- 遺構
- 曲輪、土塁、堀切
- 築城者
- 波多野氏
- 主要城主
- 波多野氏
- 築城年
- 天文年間(1532~1555)頃
- 廃城年
- 慶長14年(1609)
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- なし
- アクセス
- JR福知山線/宝塚線『篠山口駅(東口)』より7.4km(車で14分)
- 舞鶴若狭道『丹南篠山口IC』より7km(車で12分)