歴史
相応峰寺は岸田川下流、清富(中世は「極楽寺村」と称した)集落の北、標高245mの観音山に所在し、「観世音山」と号する。行基開基と伝える天台宗の古刹である。寺伝によれば往時は12坊を数えたが、天正8年(1580)秀吉(秀長)の但馬侵攻によって兵火に罹り、里坊(西行坊)を除いて焼失し、延宝年中(1673~81)に本堂を再建したと云う。~以下中略
城域は東西約330m、南北約240mを測る。縄張りは、観音山(曲輪2)から南東に延びる主尾根を土塁状に削り残し(曲輪17・18は平坦地、曲輪19は自然地形)、その西・西南側(本堂側)と東側斜面(裏側)に本堂・庫裏や坊跡と思われる多数の曲輪を構築している。土塁を断ち切るような大規模な堀切は、防禦だけでなく、本堂(曲輪1)とその反対側の坊跡(曲輪10・11・12・13)との連絡道として機能させようとしたものであろうか。更に南東端斜面には、堀切・竪堀と6条から成る畝状竪堀を構築して防禦を固めている。相応峰寺城は大規模なしっかりとした高さをもつ土塁や畝状竪堀の存在から、戦国期に寺院が城郭化した姿を窺うことができる。やはり谷部に寺院の中心(本堂等)設け、其処を取り囲むように土塁や曲輪を構築して尾根筋を城砦化している点は一般的寺院の在り方と共通している。
浜坂町域には、有力国人として
芦屋城主・塩治氏と七釜城主・田公氏がいる。しかしこの両城には堀切・竪堀は構築されているが、畝状竪堀は見られない。竹野
轟城主・垣屋豊続は天正3年(1575)の芸但和睦以降、八木豊信・太田垣輝延と共に但馬の毛利方として活躍したが、天正7年(1579)竹野~諸寄(浜坂)間に「5、6ヶ所の要害」を造って秀吉に抗している(吉川元春等連署書状案『吉川家文書』)。
畝状竪堀をもつ相応峰寺城はこの垣屋豊続の「要害」群の一つと思われ、垣屋豊続が畝状竪堀を構築して再利用しようとしたものと判断される。<豊岡市の城郭集成Ⅰより>
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データ
- 所在地
- 兵庫県美方郡新温泉町清富字観音山
- 通称
- 観音山城(?)
- 形式
- 山城 (標高 245m)
- 遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀
- 築城者
- 不明
- 主要城主
- 不明
- 築城年
- 戦国期?
- 改修年
- 不明
- 廃城年
- 不明
- 開城時間
- 常時?
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし?
- 駐車場
- 未確認
- アクセス
- JR山陰本線『駅』より