歴史
志馬比城は矢田川右岸、JR香住駅南側、標高62.5mの独立丘陵に所在する。伝承では、城主は篠部有徳であると云う。延文元年(1336)篠部有信が城主の時、
加鹿野城主・野石甲斐守源太と一日市・塔の尾城主・長九郎左衛門に攻められて落城し、志馬比城は長一族の支配下に入った。その後、奈佐・篠部伊賀守の弟同苗参河守が篠部有信の弔い合戦の為に攻めてきて塔の尾城を奪取したが、建徳2年(1371)長加賀守忠連が再び奪回したと云う(『香住の地誌2』)。
寛延3年(1750)に差し出された文書には「島山城主は石津甲斐守」と記されており、弘治3年(1557)の『但馬にしかた日記』には七日市場に「石津殿」が居住している。したがって、戦国末期の志馬比城主は石津氏の可能性が高い。
天保年間(1830~43)の「香住絵図」によれば、矢田川の流路は現在とは大きく異なり、志馬比城の南裾から東に流れ、城の西側に「御船池」、北側に「御濠池」があった。篠部氏の居館跡は「御濠池」の東側にあり、その南側には「御城台」(山城か)がある。志馬比城の北西には「馬場」があり、城の南側に位置する「油良」(『但馬にしかた日記』には、油良村に「糀谷二良大夫」の名がみえる)と北側に位置する「七日市」はその城下と考えられる。
志馬比城の東西約480m・南北約200mの城域をもつ大規模城郭である。城は大別して、「東城」と「西城」に分かれる。
東城の主郭aは東西約40m・南北約23mを測り、主郭の北~東側は25本の畝状竪堀、南側は数段の曲輪と幅の広い帯曲輪、西側は三つの曲輪と2条の堀切・竪堀で防禦されている。更に西城との尾根鞍部には堀切・竪堀を構築して、西尾根の防禦を固めている。
西城は尾根筋に沿って、粗6つの細長い曲輪を東西に配置している。一部に削り残し土塁が見られるが、曲輪の段差や切岸が甘く、自然地形を残すものもある。竪堀は構築されていない。
志馬比城は南北朝期に起源をもつ城を室町期に改修し、更に戦国末期に東城を中心に畝状竪堀群で大改修したものと判断される。<豊岡市の城郭集成Ⅰより>
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規 模
難易度 ☆☆
アクセス ☆☆☆☆☆
データ
- 所在地
- 兵庫県美方郡香美町香住区香住字島山
- 通称
- ─
- 形式
- (標高 62.5m)
- 遺構
- 曲輪、土塁、堀切、竪堀、切岸
- 築城者
- 不明
- 主要城主
- 篠部氏、石津氏
- 築城年
- 南北朝期
- 改修年
- 室町期、戦国末期
- 廃城年
- 不明
- 開城時間
- 常時?
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- 未確認
- アクセス
- JR山陰本線『香住駅』より