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全国気ままに城めぐり♪

日本お城めぐりの旅

生野城IKUNO CASTLE


歴史

 応永34年(1427)但馬の守護職・山名時熈(宗全の父)は、4代将軍・足利義持の命により、播磨の守護職・赤松満祐を討伐することになり、兵を率いて生野に出陣し、播但の国境であるこの山の頂上に城を築いて攻撃の拠点にしたのが生野山城であります。
 標高601mの山頂には36m四方の主郭(本丸)を中心に、西方の但馬街道に向けて、大規模な二の曲輪、三の曲輪が続き、尾根の要所には多数の別郭や堀切を構築して、赤松軍の攻撃に備えており、中世山城の典型的な遺構を見ることができます。
 570余年を経た山容は今も峻険、深い谷間の雑木林の中にも、土塁に囲まれた曲輪群や堀切がよく残り、戦国時代の城塞跡として、非常に貴重な存在といえます。又、城跡からの眺めは素晴らしく、南の方向には赤松氏の拠点であった播州平野も遠望され、攻撃に備えて万全の構えを示していたことがよくわかります。<現地案内板より>

  年号   西暦  
 応永34年   1427 山名時熈が生野山城を築く。
 天文11年   1542 城山の南表で銀石が掘り出されるが、但馬の守護職・山名祐豊がこれを支配する。その後、大規模な山城の改修に着手し、山麓には平城(居館)を築く。
 弘治2年   1556 竹田城主・太田垣朝廷が山名祐豊から銀山の領有権を奪う。
 天正5年   1577 羽柴秀吉は織田信長の命を受け、真弓峠から但馬に進攻する。
生野城守備の家臣は竹田城まで退散するが、朝廷も降参して竹田城は落城する。
以後、生野城は廃城となり山麓にあった平城は信長の銀山経営の拠点となった。
 天正10年   1582 信長の死後、秀吉は生野銀山を直轄地とし代官を置き経営する。
 慶長5年   1600 関ヶ原の戦い以後、徳川家康が生野の地を天領として支配する。
鉱山収入は260年にわたり幕府の重要な財源であった。 


コメント

オススメ ☆☆☆☆
規模   ☆☆☆☆
難易度  ☆☆☆☆
アクセス ☆☆☆


データ

所在地
兵庫県朝来市生野町口銀谷字古城山
通称
形式
山城(標高 601m/比高 290m)
遺構
石垣、曲輪、竪堀
築城者
山名時熈
主要城主
山名氏
築城年
応永34年(1427)
廃城年
天正5年(1577)
開城時間
常時
入城料
無料
休城日
なし
駐車場
びわの丸公園駐車場(無料/約5台)
アクセス
JR播但線『生野駅(東口)』より1.2km(徒歩16分)
播但連絡道『生野北IC』より1.3km(車で3分)

日本100名城
現存12天守
番外編

個人データ
初登城日:2019.4.3
最終登城日:2019.4.18