本文へスキップ

全国気ままに城めぐり♪

日本お城めぐりの旅

革手城KAWATE CASTLE 


歴史

=革手城の由来=
 美濃源治は平安末期から鎌倉時代にかけて、美濃各地に土着した清和源氏の一族である。
なかでも光衡は、源頼朝に従って軍功を挙げ、東美濃の地土岐に土着し、土岐氏と名を改め、現瑞浪市一日市場に居住し、屋敷に源氏の守り神の八幡神社を祭る。そして、美濃国守護織(1189)となって、鎌倉幕府と共に栄え、土岐源氏の祖となった。
 光衡の子・光行は、源実朝に仕え池田親九郎追討の軍功(1216)をあげ左衛門尉となる。土岐市浅野に住み、執権北条貞時の娘を妻にして、隠岐守となり、土岐氏隆盛の基となる。
 土岐中興の祖となる土岐頼貞は、光定の子、母は北条貞時の女で執権北条高時の兄妹、土岐惣領を継いだ頼貞は、文武に秀で人物豊かで、その子・頼清や頼遠と共に、元弘の変(1333)に後醍醐天皇の令旨に応じ、足利尊氏と共に鎌倉幕府打倒に功を挙げた。その後、建武新政の不満に兵を挙げた足利尊氏に従い数多くの軍功『土岐絶えば幕府(足利)絶ゆべし』『諸家の頭、筆頭の頭』と信任を深くし、西美濃をも治めて美濃国守護の地位を築き、現・瑞浪市一日市場、現・土岐市大富にその居館を構え、11代続く守護織の初代となる。
 第2代守護織・土岐頼遠は、父・頼貞と共に足利尊氏に従って数々の軍功、現・土岐市大富に住みしが、辺地なればと現・岐阜市南長森に長森城を築き、居住。頼遠は功に募りて驕慢、1342年持明院(後光厳上皇)に無礼を働き断罪される。
 第3代守護織・土岐頼康は、土岐頼遠の後を継いで土岐惣領となる。足利尊氏の命により信州(信濃)・予州(伊予)の平定、その軍功により美濃・尾張・伊勢の3ヶ国の守護職をなる。長森城は所狭きをもって1353年6月、現・岐阜市下川手に革手城を築き茲れに移った。別名・革手府。土岐源氏の名声と実力は最高に至った。
 この城は、旧・木曾川と現・荒田川を改修し天然の地の利を生かした広大な城地で、七堂伽藍をもつ霊薬山正法寺・源氏の守護神八幡神社をはじめ、神社仏閣、数多くの平屋建築、城郭というより御殿風(都風)の建物だったと推察される。
 以後、革手城は11代まで歴代の守護職の拠城となる。
 革手城に在住した守護(1353~1547) 
第3代 頼康 (革手城) (1318~1387)  健徳寺節叟善忠居士
第4代 康行 (革手城) (1350~1407)  法霊院咲岩善喜居士
第5代 頼忠 (池田城)  (1329~1397)  禅蔵寺正庵真兼居士
第6代 頼益 (革手城) (1387~1414)  興禅寺壽岳常保居士
第7代 持益 (革手城)   (1407~1474)  法国寺大助常祐居士
第8代  成頼 (革手城) (1446~1497)    瑞龍寺国文宗安居士
第9代  政房  (革手城) (1467~1519)  承隆寺海雲宗壽居士
第10代 政頼   (革手城)   (1498~1546)  南泉寺玉岑玄珪大居士
第11代  頼芸 (池田城)   (1502~1582)  東春院文関宗芸居士
 革手城が都風となって繁栄したのは、建武の新政の失敗と応仁の乱である。都を追われた公家・百官・天上人が地方の守護職を頼って寄宿したことにある。此等の人々を受け入れるだけの余裕があったのは、西の大内氏(山口)と東の土岐氏(革手)である。此等の人達は、都に帰る日を待ちながら詩歌・蹴鞠・能楽など、都文化の花を咲かせた。当時、革手付近は『柳に桜をこきまぜて』錦を飾る京洛中の態に異ならざる盛んな有様であった。
 こうして築かれた革手府文化は、1494年の船田の乱によって3日3晩燃え続ける戦乱によって灰燼となった。斎藤道三は岐阜城に本拠を持ち革手城は廃城となる。その上、徳川家康は加納城築城に土砂まで使用し、革手城は跡形もなくなった。当地は、城域の粗北隅の地と推察している。
 以後、約400年間、彼方此方の集落に残された宮後は、鎮守の森として村の善男善女に守られ受け継がれてきた。明治時代以降、現・神明神社に合社(9社)されている。<現地(神明神社)案内板より>

                  

コメント

オススメ ☆
難易度  ☆
アクセス ☆☆☆


データ

所在地
岐阜県岐阜市正法寺 (済美高校)
通称
革手府、川手城
形式
平城
遺構
土塁
築城者
土岐頼康
主要城主
土岐氏、斎藤道三
築城年
正平8年 (1353)
廃城年
享禄3年 (1530)
開城時間
常時
入城料
無料
休城日
なし
駐車場
なし
アクセス
JR/名鉄『岐阜駅』よりバス 

日本100名城
現存12天守
番外編

個人データ
初登城日:2013.12.3
最終登城日:2013.12.3