歴史
小西行長は、
宇土城(熊本県宇土市)で肥後半島を領していたが、同じく肥後半国を治める加藤清正と政治的に対立を深めていた。文禄・慶長の役の対立も絡み、此れが文治派・武断派分裂の一因とも云われる。文治派の石田三成らが挙兵すると西軍に与した。
本戦の当日は、夜明け迄に約6,000の兵を率い、北国街道と東山道(中山道)の間に位置する北天満山に布陣。午前8時頃に開戦を告げる烽火を上げると、寺沢広高や戸川逵安(みちやす)らと戦ったが、攻め込まれ切り崩されてしまう。小早川秀秋の寝返りによって西軍諸隊は動揺し総崩れとなり、小西隊も敗走。行長自身は春日(揖斐川町)方面へ敗走した。
熱心なキリシタンで自害出来なかったと云われ、19日に関ヶ原の庄屋・林蔵主(りんぞうす)を介して自首し、この地を治める竹中重門(しげかど)の家臣の手で捕縛された。これに出された徳川家康からの感状は、今も関ケ原町に伝わる(小西召捕(めしとらえ)感状)。林蔵主は、はじめ行長に逃げるように薦めたが、最後には東軍の陣へと送り届けられたと伝わる。
行長はその後、10月に三成らと共に京都の六条河原で処刑された。<現地案内板より>
コメント
オススメ ☆☆
規模 ☆☆
難易度 ☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原4120-6
- 通称
- ─
- 形式
- 陣所
- 遺構
- ─
- 築城者
- 小西行長
- 主要城主
- 小西行長
- 築城年
- ─
- 廃城年
- ─
- 開城時間
- 常時
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 駐車場
- なし
- アクセス
- JR東海道本線『関ヶ原駅』より1.5km(徒歩19分)
- 名神高速道『関ヶ原IC』より2.4km(車で約6分)