石橋城は、奥平氏2代貞久の2男の弾正久勝(だんじょうひさかつ)が最初の城主で、近辺の地名『石橋』を称し、3代貞昌の家臣になった。久勝の子・弾正繁昌は、天文6年(1537)9月に謀反が露見し、4代貞勝の命を受けた土佐定雄に屋敷を攻められて敗北、郎党40人余が討死した。
死骸は一穴に埋められ、奥平弾正宮と呼ばれている。現在でも、西方土塁の腰に石祠を確認することができる。
後年になり、当山の第2世徳岩明和尚(とくがんみょうおしょう)が繁昌と一族の死を哀れみ亀山城主・貞勝に願い出、 弾正屋敷をもらい受けて寺地とし『石橋山慈昌院』とした。<現地案内板より>