●歴史(築城~廃城)
九戸城は、南部氏一族である九戸光政が明応年間(1492~1501)に築城したといわれる中世の平山城である。光政より4代後の九戸政実(まさざね)の頃、南部宗家の家督をめぐって、政実と南部信直との争いが激化し、天正19年(1591)、豊臣秀吉が送った諸将の軍勢に包囲され落城した。その後、秀吉方の蒲生氏郷により近世の城郭に改修され、名を福岡城と改め、南部氏の本城となった。寛永13年(1636)、信直の子・利直が盛岡城に本拠を移し廃城となった。
●国指定史跡『九戸城跡』の価値
九戸城跡は、昭和10年(1935)に国の史跡指定となっている。指定の理由は、日本史における歴史的舞台であったことのほか、古い石垣が残っている事や、城郭の規模が大きかったことにある。
▲歴史的舞台▲
歴史的舞台について、国の指定原文付記に『秀吉、秀次をして浅野、蒲生、堀尾等の諸将を率いて之を攻めしむ。政実防戦頗る努めたりしも衆寡敵せずして降り、茲(ここ)に於て奥州地方平定し全国統一に帰せし』と記されており、この地は実質的に豊臣秀吉が全国統一を果たした最後の戦場であったといえる。
▲城郭の規模▲
本丸の一部に残る野面積みの石垣は、穴太衆による構築とされ、東北最古級といわれている。また、本丸・二ノ丸・若狭館・石沢館・松ノ丸等で形成する城郭は、東北地方稀に見る大規模なものとなっている。
●特色(九戸城と福岡城)
九戸城跡では、奥州にみられる中世城郭の特色をもつ九戸城と、西国洋式(織豊系)の近世城郭である福岡城の、2つの時代の城郭を見ることができる。現在の本丸・二ノ丸・松ノ丸は福岡城期の姿である一方、石沢館・若狭館は、九戸城期の特徴を色濃く残している。
中世から近世へと移る歴史の戦いの中に沈んだ九戸城。<現地配布パンフレットより抜粋>
縄張図