八戸城は、馬渕・新井田両川の形成した沖積平野に突き出た洪積台地の先端部を利用して築城されている。
建武元年(1334)陸奥国司・北畠顕家の国代・南部師行が糠部郡(ぬかのぶのこおり)八戸に根城を築いたが、その後間もない頃に、その孫・信助が築いた中館がこれであろうという。この一族は根城・中館及び新田館に居住し、八戸地方を鎮めてきた。
戦国時代の末に、三戸の南部信直が豊臣秀吉から朱印を受け、南部内七郡を支配するようになった。その子・利直は、寛永4年(1627)に根城南部氏を遠野に移して、八戸を直支配とし、自ら縄張りをして当時及び城下町の作事・普請をしたと伝える。城下の西側には根城町の商家を移して三日町・十三日町・二十三日町を、また東側には新田町の商家を移して八日町・十八日町・二十八日町をつくり、現在の市街のもとを作ったという。
しかし、当時及び城下町の本格的な整備は、盛岡城に移った重直が、寛文4年(1664)世継ぎを定めないまま没した為、幕府が新たに弟・重信に盛岡8万石を、同じく弟・南部直房に八戸2万石を与えたことにより、八戸藩が誕生した後のことである。
その領地は三戸郡・九戸郡・志和郡のうち83ヶ村であり、この図は弘化4年(1847)頃のものである。<現地案内板より>
角御殿表門(現存 城門) 南部会館(青森県八戸市内丸3)
東門(移築 城門) 根城の広場(青森県八戸市大字根城東構)