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全国気ままに城めぐり♪

日本お城めぐりの旅

広島城HIROSHIMA CASTLE 


歴史

 広島城は、太田川河口の三角州に毛利輝元が築いた典型的な平山城です。
=城地の選定と築城=
 毛利氏は、南北朝時代から郡山城(現広島県安芸高田市)を居城とする一領主でしたが、元就の代に中国地方の大半を支配する戦国大名に成長しました。後を継いだ孫の輝元は、豊臣秀吉の聚楽第・大坂城を見物し、城下町と一体化して政治・経済の中心地として機能する城郭の必要性を痛感しました。こうして瀬戸内海に面する太田川河口の三角州に城地を定め、天正17(1589)年4月15日鍬入れ式を行ないました。
 築城工事は元就の子・穂田元清、輝元の側近・二宮就辰(なりとき)を普請奉行として急ピッチで進められ、天正18年末には堀と城塁が一応完成し、翌年、輝元は入城を果たしました。

=城下の整備=
 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後、西軍に与した毛利氏は防長二国に減封され、輝元に代わって安芸・備後2ヶ国(現在の広島県域)の領主として福島正則が入城し、外堀や外郭の整備を進め広島城を完成させました。また、広島城下を通るように西国街道(山陽道)を南下させたほか、出雲・石見街道を整備し、その沿道を中心に町人町の大幅な拡充を図りました。
 しかし、洪水で破損した広島城の修築許可の不備(武家諸法度違反)を咎められた正則は元和5(1619)年に芸備2ヶ国(50万石)を没収され、代わって紀伊和歌山から浅野長晟(ながあきら)が安芸一国・備後半国の領主として広島城に入りました。以後、明治2(1869)年の版籍奉還までの大凡250年間、浅野氏が12代にわたって広島城主を勤めました。

=明治以降の広島城=
 廃藩置県以後、城内には旧陸軍の施設が徐々に設けられ、建造物は次第になくなりました。特に明治7年には、本丸・三の丸で出火し、本丸御殿等も焼失し、大天守、中・裏御殿、二の丸等を残すのみとなってしまいました。そして昭和20(1945)8月6日、原爆投下により天守閣をはじめ城内の建造物は全て壊滅しました。現在の天守閣は、同33(1958)年に外観を復元して建造されたもので、内部は武家文化を中心に紹介する歴史博物館になっています。<現地パンフレットより一部編集>


 1589年、毛利輝元により築城が開始され、10年の歳月を費やし1599年に完成する。


コメント

オススメ ☆☆☆
難易度  ☆☆☆
アクセス ☆☆☆☆

データ

所在地
広島県広島市中区基町
通称
鯉城
形式
平城
遺構
復興天守、櫓、櫓門、曲輪、石垣、堀
築城者
毛利輝元
主要城主
毛利輝元、福島正則
築城年
天正17年(1589)
廃城年
明治6年 (1874)
開城時間
9:00〜18:00
9:00〜17:00 (12月〜2月末まで)
入城料
360円
休城日
12月29日〜1月2日
100名城スタンプ
天守内
駐車場
なし 
アクセス
JR山陽本線『広島駅』より 徒歩20分

日本100名城
現存12天守
番外編

個人データ
初登城日:2009.12.24
最終登城日:2009.12.24