1、位置と城史
 鶴ヶ峰城は稲葉川支流、観音寺川と阿瀬川に囲まれた、東西に長く延びる丘陵に所在し、「西城」と「東城」に分かれる。西城は観音寺集落西側、標高405mの山頂に位置し、集落との比高は約300mを測る。また東城は観音寺集落北側、標高301mの山頂に位置し、集落との比高は約200mを測る。
 永正9年(1512)、山名致豊は弟誠豊に守護職を譲るが、同じ年、楽々前城主・垣屋続成が鶴ヶ峰城を築き本拠にしたという(因幡垣屋系図)。
 永禄2年(1559)8月、垣屋続成は善雲寺野合戦に出陣し、播磨の赤松則貞と戦った(「河本家文書」)。
 永禄12年(1569)8月、織田信長の命を受けた木下藤吉郎(羽柴秀吉)・坂井右近(政尚)が生野銀山を接収し、此隅山城・垣屋城など18城を攻略した。この時、田結庄城(鶴城)・観音寺城(鶴ヶ峰城)は抗戦し
攻略を免れているが、秀吉の相城(付城)に包囲されて近日中には落城するであろうことが記されている(朝山日乗書状安「益田家文書」)。
 元亀元年(1570)には続成は、岩井村(旧豊岡市)養寿院で鶴城主田結庄是義に襲われ自害した(因幡垣屋系図)。天正3年(1575)11月、続成の子垣屋光成は、宵田城主・垣屋忠顕、轟城・主垣屋豊続らと共に野田合戦に出陣し田結庄是義を滅ぼした(垣屋氏系図)。

2、城の構造
<西城>
 西城の城域は、東西約363m・南北約231mを測る。西城は細尾根に立地していることもあって、細長い曲輪を尾根筋に並べ、堀切・竪堀で遮断する単純な縄張りである。
 主郭1は東西52.7m・南北11mと細長く、東隅と西隅に虎口を設けている。曲輪2は7.8×19.5mを測り、主郭1との段差は1.5mある。曲輪3は11.2×30.7mを測り、曲輪2との段差は1m程である。曲輪1・2・3で長い主郭部を構成している。
 曲輪3の西下尾根には、やや離れて竪堀ア(幅3.6m・長さ18m)を構築している。城の背後(西側)に堀切は確認できない。
 主郭1の南尾根には、8段の小曲輪と大規模な堀切・竪堀を構築している。曲輪4は14.8×9mを測り、主郭1との段差は約9〜10mを測る。堀切Aは幅7m・高さ約8m、竪堀イは幅3.8m・長さ34m、竪堀ウは幅4.5m・長さ22mを測る。
 主郭1の東側約50m程の位置に岩盤を掘り込んだ堀切・竪堀を構築し、その東側に長大な曲輪5・曲輪6を設けている。堀切Bは幅5.8m・深さ2.5m、竪堀エは幅4.5m・長さ10m、竪堀オは幅4.4m・長さ42mを測る。曲輪6は東西88m・南北10.2mを測り、南東隅を少し低くして虎口(4.6×13m)を構築している。最先端の曲輪6は8×16.5mを測り、更にその東下には竪堀を構築して守備している。竪堀カは幅3m・長さ9m、竪堀キは幅3.5m・長さ6mを測る。

〔東城〕
 東城は西城の端から直線距離で約360mほど離れた尾根のピークに所在する。城域は東西約120m・南北約150mを測る。城は主郭から4方向に延びる尾根に曲輪を配置し、尾根筋を堀切・竪堀で守備する縄張りである。
 主郭1は東西18.5m・南北17.7mを測る。主郭1の南西下約5〜6mには帯曲輪2(幅2.5〜3m)と2条の竪堀、堀切・竪堀を設け、尾根筋の遮断を図っている。竪堀アは幅4.5m・長さ20m、竪堀イは幅2.5m・長さ14mを測る。また、堀切Aは幅6m・深さ2m、竪堀ウは幅4m・長さ13m、竪堀エは幅4m・長さ12mを測る。
 曲輪2の北西尾根には、帯曲輪2のほか3段の曲輪が配置されている。曲輪3は13.7×14.7mを測り、帯曲輪2との段差は約7〜8mを測る。
 主郭1の南尾根には3段の小曲輪を配置している。曲輪4は12×10.5m、曲輪5は9.2×4.3mを測り、曲輪間の段差は約4mを測る。
 主郭1の北東下約10mには曲輪6と竪堀を設け、更に堀切・竪堀等を構築して防禦を固めている。曲輪6は9.2×19.4mを測り、竪堀オは幅2.5m・長さ7mを測る。また堀切Bは幅5.3m・深さ約3m、竪堀カは幅3〜4m・長さ39m、竪堀キは幅4m・長さ20m、竪堀クは幅2.5m・長さ6.7mを測る。

3、まとめ
 鶴ヶ峰城は尾根筋に曲輪群を構築し、尾根筋を堀切・竪堀で防御する単純な縄張りである。楽々前城や神鍋地区の城郭のような畝状竪堀は確認できない。小曲輪を飛び飛びに配置するような縄張りは南北朝期の特徴であり、堀切・竪堀は戦国期特有の普請の仕方である。
 城は垣屋続成が永正9年(1512)に築城したといわれるが、それ以前の南北朝〜室町期に城砦化していたことが考えられ、南北朝期に観音寺が城砦化していた可能性を指摘しておきたい。従って続成の築城は、既にあった古い城を利用したもので、曲輪の拡張と堀切・竪堀等による改修であったのではなかろうか。
 尚、観音寺集落の西端には、横矢掛かりをもつ石垣(高さ4〜6m)を構築した字「殿屋敷」があり、居館跡と伝承されている。しかし石垣は戦国期のものではなく、江戸から明治頃のもので、続成の居所とは考えにくい。また城の北側山麓には「殿」という集落があり、家臣団屋敷の存在が想定されているが、定かなことは不明である。<豊岡市の城郭集成Tより>