歴史
中津城は福岡県との県境を形成する山国川の支流中津川の河口沿いに位置します。北は海、西は川に面した要衝の地であり、堀の水嵩は潮の干満で上下します。東は二重、南は三重の堀を有し、外堀には「おかこい山」と呼ばれる土塁を廻らせていました。
天正15(1587)年、豊臣秀吉は九州を支配下にいれ、豊前6郡の領主として、黒田孝高(如水)を入国させました。孝高は1588年、中津城の築城を行ないます。中津城は九州で最古の近世城郭の一つで、築城当初の石垣を見ることができます。
慶長5(1600)年、細川忠興が入国し、中津城に息子の忠利を入れました。忠利は1603年から1620年にかけて中津城の増改築を行ないました。元和元(1615)年『一国一城令』により、破却の危機に瀕しましたが、忠興の尽力により例外的に中津城は残ることができました。1620年、忠興は隠居して三斎と号し、中津城に入ります。三斎の隠居城として修復・完成した中津城には、本丸、二の丸、三の丸と8門、22の櫓が設けられ、現在の形がほぼ整いました。
寛永9(1632)年、小笠原長次が入国します。小笠原時代には、細川氏以降すすめられていた御水道や城下町の整備がほぼ整い、現在でもその町割りが残っています。
享保2(1717)年に奥平昌成が入国し、以後明治4(1871)年の廃藩置県によって廃城するまで、中津城は中津藩主の居城として存続しました。
廃藩置県後は、堀の多くは埋められ、本丸跡と三の丸跡の境の石垣は道路建設に伴い、一部取り崩されました。明治10(1877)年には、西南の役により蜂起した中津隊の襲撃にあい、中津市庁として利用されていた『松の御殿』が焼失するなど、城内の風景は変わっていきました。昭和に入ると中津城天守閣建築の機運が高まり、昭和39(1964)年に現在の模擬天守閣が建設されました。
平成13(2001)年、中津市では、城内の石垣調査及び発掘調査をスタートさせ石垣改修工事を着工しました。調査の結果、多くのことが判明しました。平成20(2008)年に工事は一旦終了していますが、今後も調査を継続していく予定です。<現地パンフレットより>
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オススメ ☆☆☆
難易度 ☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 大分県中津市二ノ丁本丸
- 通称
- 丸山城、扇城、小犬丸城
- 形式
- 平城
- 遺構
- 模擬天守、模擬櫓、曲輪、石垣、堀
- 築城者
- 黒田孝高
- 主要城主
- 黒田氏、細川氏、小笠原氏、奥平氏
- 築城年
- 天正16年(1588)
- 廃城年
- 明治4年 (1871)
- 開城時間
- 9:00~17:00
- 入城料
- 無料 (天守閣:400円)
- 休城日
- なし (年中無休)
- 駐車場
- 中津公園駐車場 (無料)
- アクセス
- JR日豊本線『中津駅』より 徒歩15分