歴史
大分市荷揚町に所在する「府内城」(荷揚城)は、府内藩主の居館及び武家屋敷により構成された近世城郭の特徴を色濃く残す城です。大分川と住吉川に挟まれ、かつて海辺に面した府内城は、白土の塀によってまるで水上に浮かぶその姿から、「白雉(はくち)城」とも呼ばれています。
府内城は大友氏が国を去った後、豊後を治めていた早川氏に続き、府内に入った福原直高により築城が行なわれ、その後、竹中重利により、現在の府内城の形が出来ました。府内城下町も同じ時期に形成され、今の大分市街地のおおよその形は、この頃に作られました。
城郭は、北方を海に、東方に大分川河口が面した、高低さが殆ど無い平坦な城になります。また、大きく三つの郭と三重の堀からなっていました。明治末頃、三の丸外側と二の丸内側の堀は埋め立てられ、現在では、二の丸と三の丸を区切る堀が残っています。かつては、四重層の天守を持ち、23の櫓と5つの門、3箇所の廊下橋が築かれていましたが、戦災などより失われてしました。現存する「宗門櫓」と「人質櫓」は県指定文化財と成っており、江戸時代の意匠を今に伝える貴重な文化財といえます。また、堀や塀、石垣も県指定となっており、それ以外の部分も市指定の史跡として保護され、大分市民の憩いの場となっています。
府内城の築城は、大きく二つの築城段階があり、福原直高と竹中重利の段階に分かれます。福原直高は慶長4(1599)年に府内城の本丸、二の丸(三重櫓)、三の丸(家臣屋敷)まで造っていました。また、天守は入城できましたが、完成していなかったと思われます。やがて、慶長6(1601)年に府内に入った竹中重利は、府内城の修増築と城下町の建設を始めます。防備を固める為、石垣を築いたほか、天守、櫓、武家屋敷が、慶長7(1602)に完成します。その後、城下町建設に取り掛かり、慶長13(1608)に、商船の出入りの為に港「京泊(きょうどまり)」を設けるなどを行ない、城下町を整備しました。<現地パンフレットより>
コメント
オススメ ☆☆☆
難易度 ☆☆☆
アクセス ☆☆☆
データ
- 所在地
- 大分県大分市荷揚町
- 通称
- 大分城、荷揚(にあげ)城、白雉(はくち)城
- 形式
- 平城
- 遺構
- 天守台、城門、櫓、曲輪、石垣、堀
- 築城者
- 福原直高
- 主要城主
- 竹中氏
- 築城年
- 慶長4年(1599)
- 廃城年
- 明治5年(1872)
- 開城時間
- 常時(公園内)
- 入城料
- 無料
- 休城日
- なし
- 100名城スタンプ
- 西の丸 文化会館2F(北西側階段付近) (9:00~20:00)
- (12月28~1月4日、第2、第4月曜日は休み)
- 駐車場
- 文化会館駐車場、または周辺有料駐車場を利用
- アクセス
- JR日豊線『大分駅』より 徒歩約15分