角牟礼城跡は、玖珠町森にある角埋山(標高577m)の山頂に築かれた山城である。玖珠郡衆と呼ばれる在地領主の一人森氏の詰城であったと考えられるが、玖珠と豊前を結ぶ交通の要衝に位置していたため、天文年間には大内氏の豊前侵入に伴い大友氏の指導のもと城の改修が行われる。その後、周辺の玖珠郡衆による共同管理の城(番城)となり、天正15年の豊薩戦では落城しなかった要害堅固な城である。大友氏除国後の文禄3年、秀吉により日田・玖珠に毛利高政が入国し、角牟礼城を玖珠の拠点としている。この時から佐伯に転封されるまでの間に毛利氏が角牟礼城を改修したと考えられている。毛利高政は角牟礼城の二の丸・三ノ丸地区を中心に高石垣と桝形虎口等をつくり近世城郭へと変貌させたが、本丸地区は大きな改修を受けていない。この改修が、この時期九州に入ってきた豊臣大名に見られる一部分を象徴的に改修するといった特徴的な城づくりなのか、城替えのため建設途中で廃城となったのかはっきりしていないが、これにより、角牟礼城跡は中世山城から近世城郭が成立していく過程を一目で見ることのできる貴重な城跡となった。
近世後期に編纂された「豊後国志」によれば、久寿年間(1154~56)に源為朝が築城し、弘安年間(1287~88)には森三郎朝通が居城したとあるが明確な史料はない。また、天正年間の島津軍との戦いについては、「地域堅固、抜くあたわずして去る」とその城としての堅固さが書かれている。
文献上初めて登場するのは、文明7年(1476)の志賀文書で「くすつのむれの城らっきょ(落居)」とある。天文2年(1533)には大友義鑑が森氏や平井氏に宛てた角牟礼城での城番の労をねぎらう書状がある。天文年間には大友義鑑から古後氏ら8名の玖珠郡衆に宛てた書状で角牟礼城に堀を作るよう改修を指示している。これは、大内軍の豊後侵攻に備えてのことと考えられる。天正14年(1583)の島津氏の豊後侵入の際、角牟礼城に籠城して守備した玖珠郡衆らに大友吉統から感状が贈られている。慶長5年(1600)には、関ヶ原の戦いに呼応した石垣原の戦いをはじめとする内戦が豊後国内でおこり、黒田氏により角牟礼城は開城された。
慶長6年(1601)毛利氏が佐伯に転封になり、来島氏が入部するが、秋山家文書によれば「玄興院御打ち入り之初めハ、日出生村まつがねに暫く御座なされ候、之により日出社□に三嶋大明神を御勧請成され候由」とあり、しばらく日出生村のまつがねに本陣を置き、陣屋と城下町の建設に取りかかったと考えられる。田坂道閑覚書によると「豊後玖珠郡森ニ御在宅ヲ構タマイシナリ、角埋山ニ御城之地取トモ有リテ土塀計リ掛置キ給フ」とあり、来島氏は角牟礼城の補修(土塀計リ掛置)をしただけで、城には入らず陣屋を構えたと考えられる。しかし、秋山家文書の中には、寛永9年(1632)に肥後に転封となった細川忠利の父三齊が化粧料田の小田村を巡視した際の出来事が「…さてさて小身ニ似合ぬ能城地をもたれ候と御称美なされ候由申し伝え候、角牟礼之義古城と申すニては之無く、前丹州様御代までこれ有り候城地ニ御座候」とあり、2代藩主通春の時代まで角牟礼城が存在したと記されている。また、同文書によると通春の代に「御はき成され候」と記されていること、正保の絵図の写しといわれている豊後国玖珠郡久留島丹波守屋敷絵図に「角牟礼古城」とあることなどから、通春の代には廃城となったと考えられる。以後は久留島(2代の時に来島から改名)氏により御止め山として管理され、その歴史に幕を閉じる.。<玖珠町HPより>